広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂する前後の広島市内の繁華街である本通りが崩壊する同地点の変貌である。賑やかだった本通りなどに戻り、崩壊する以前の本通りの繁華街に戻り撮影した。原爆前後の写真を比較すれば、複雑な都市構造、電気、公共交通機関などを備えた近代的な都市が、全く荒涼とした廃墟へと変貌した。本通り商店街も完全に崩壊して、焼け野原となり、広島市内の中心部に密集している建物の崩壊が一望と化した。都市機能の電車、水道、ガスなどが不通となった。
1935年頃の広島市革屋町の本通り商店街であった。1921年に設置されたスズラン燈、びっしりと建ち並ぶ家々、遠方にはドーム型の屋根の広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、手前の通りを走る路面電車、繁華街のにぎわい、人々の生活、被爆前の広島市内には多くの人々の暮らしていた。本通りは広島市内で古くからの繁華街であった。広島城主の福島正則が広島城の北側を通っていた西国街道(山陽道)を城の南側の本通りに付け替えた。この本通りに沿って革屋町、平田屋町、播磨屋町といった町が誕生した。
広島原子爆弾が炸裂すると衝撃波が発生する。空中爆発からの直接波と、地面からの反射波で、地上の建物などに強烈に破壊した。原子爆弾の約半分のエネルギーが爆風となる。広範囲の建物に壊滅的に崩壊した。爆風の衝撃波で、建物全体が爆風方向に圧潰した。 爆心地に近い地域の建物には、衝撃波は垂直方向に加わり、屋根の破壊や変形、大梁と小梁が破損した。
広島市内は原子爆弾の爆風と火災で壊滅した。 約13平方kmが崩壊して、家屋や建物の崩壊による発火と原子爆弾の熱線から、市内の領域でほとんど同時に大火災となった。火災に向けて吹き込む火事嵐で、約18m/秒の突風がさらに大火災に巻き込まれた。爆心地から半径約2kmでは全てが燃え尽くした。被爆者も巻き込まれて、熱線、爆風と放射線による原爆症で殺傷された。