2022年3月19日土曜日

1973年5月に広島大学医学部資料館に、アメリカから発送された広島原子爆弾の写真、ホルマリン漬けの解剖資料、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が返還された。

1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日の広島原爆の放射線等で傷ついた臓器全体を二重に密封していた。アメリカ陸海軍合同委員会は1945年9月から12月にかけて、少なくとも218件の剖検資料と、皮膚生検、骨髄、血液塗抹など約1,400件のスライドと組織標本を収集していた。これらの遺体の一部は約28年間、ワシントンDCの地下壕の中で国家機密として扱われた。戦争が終結して、死傷を受けた身体はすべて勝者の象徴とされた。広島と長崎に投下された原子爆弾によって死傷した人々から採取された身体資料は、何千もの科学論文の根拠となってきた。放射線の生物学的影響に関する科学的評価は、これらの試料に依存している。

 1947年に広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は約7,500人の被爆犠牲者の遺体を解剖し、その臓器をアメリカに送った。原爆投下後の数週間で死亡した被爆者や、原爆投下後10年間にわたりアメリカの医師や科学者によって、病気や癌の臓器が摘出された。被爆者の死産児や、家族がアメリカの科学者に被爆者の遺体を提供して、被爆者の臓器が摘出された。アメリカで検査後、1973年に広島大学に返還された。ABCCは、日本の科学者と研究結果を共有することなかった。日本人の被爆者の死傷体をデータ化し、その後に被爆者の被験者を加えた非人間化の実験した。人間をバラバラにし、断片化することで、傷害ではなくダメージを計算した。アメリカが日本の被爆者の痛みや苦しみを考慮することなく合理的な科学的言説を可能にした。

 放影研は残留放射線と内部被曝の影響を無視し、過小評価している。また、遺伝的な影響がないことも主張しています。原爆の長期的な人体への影響を調査するため、1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設置された。1951年、広島事務所は比治山公園の丘の上に移転した。この委員会の方針は、単に患者を診察し、病気を記録するだけで、治療は行わないという批判もあった。1975年、日米は施設の運営・管理を等しく分担することに合意した。委員会は改組され、放影研(RERF)と改称された。




2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。  




 


約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。




 








  






 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。


2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。





 






 両親は離婚して、ディマは母親はチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。





 







 ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。

2022年2月26日土曜日

25人の広島の原爆乙女が身体的顔貌の醜状で、18か月以上もニューヨークのマウントサイナイ病院で約138回も形成外科を受けた。

1945年8月6日の広島原子爆弾により、若い女性の被爆者は、身体的な顔貌の醜状により、アイデンティティ、自尊心、セクシュアリティを阻害された。遺伝的影響の恐怖は、身体的接触や将来の子供に放射する認識から、スティグマ(汚名)を着た。女性の被爆者は他者化の対象となり、限界的な存在、身体は忌まわしいもの、生きられないもの、住めないものとみなされた。原爆投下時に子どもであった被爆者は、孤独な存在である同情と絶望を感じ、「原爆乙女, Hiroshima Maidens」と認識された。アメリカの一般市民は、初めて被爆者と出会い、傷跡を通して、広島の隠された非人道的結果を可視化した。生と死の狭間に存在する彼女たちは、醜態を作り出したアメリカの介入によって、死の仮面を脱ぐことになった。彼女たちは、爆弾痕、原爆痕、ヒロシマ痕、とさまざまに形容された。原爆投下から10年、彼女たちは人生の大半を被爆者として過ごした。原爆乙女たちは、原爆による生理機能の停止を懸念していた。ケロイド状の傷跡を含む顔の醜さは、地元では身体的な汚染の兆候と認識された。ケロイド少女として知られ、限界的なデスマスクを感傷的に扱われた。年齢を重ねるにつれ、原爆乙女たちは、通常の同世代の女性たちから孤立した。

  ABCC(原爆障害調査委員会)は、被爆者の研究はするが診療は全く行なわなかった。サタデー・レビュー・オブ・リタラチャー誌の編集者であったノーマン・カズンズは、1955年5月5日に、谷本清牧師と共に、25人の若い女性被爆者を米国に招き、再建整形手術を受けさせた。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で形成外科を受けた。渡米中に18か月以上にわたって女性に対して138回の手術が行われ、中林朋子だけは、軽度の再建手術で心停止により死亡した。アメリカが医療と慈善活動の究極の先駆者であるも、その他16人の女性は大阪と東京で手術を選択した。アメリカの美学を、中流階級のクエーカー教徒のホストファミリーは、原爆乙女たちに求めた。髪型を整えられ、高価なツイードのスーツ、エレガントなシャツ、カシミアのセーターなどを贈られた。絵画や看護、秘書などの趣味を持つことも奨励された。原爆乙女たちの治療に用いられた再建外科技術は、形成外科で適応・輸出された。

 原爆乙女のうち2人は、谷本清牧師と家族とともに、アメリカのテレビ番組(This is Your Life)に招待され、スクリーンの後ろに隠れて可視化された。司会者エドワーズは観客に「彼女たちを困らせないために、顔は見せない」と言った。エノラ・ゲイの副操縦士で、ロバート・ルイス中尉は、原爆投下は命令に従って、「8時15分、原爆が投下された。放射線と爆弾の影響から逃れるために、すばやく方向転換した。まず大きな閃光があり、次に2つの衝撃波が爆撃機を襲った。その直後、私たちは何が起こったのか確認するために後ろを振り返った。すると目の前に、広島の街が消えていた。私は後で、"何てことだ、私たちは何をしたのだろう "」と書き留めた。彼は罪悪感とうつ病が重なり、1950年代後半には一時的に施設に収容された。その後に彫刻家として、「広島の神の風」と涙で流れ落ちるきのこ雲の巨大な彫刻を丹念に作り上げた。

 1956年6月12日にニューヨークから中村朋子さんの遺骨とともに出発した。原爆の乙女たちは身体的特徴を取り戻すことができたが、彼らの帰国は、彼らを歓迎する人々と西洋の操り人形と見る人々の間で分裂した。原爆乙女たちが帰国した翌1957年、日本で原爆医療法が制定された。





2022年2月19日土曜日

広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者は、広島赤十字病院にてガーゼにリバノールを塗る火傷の処置を受けた。

広島原子爆弾の熱線を背後から上半身に浴びた男性の被爆者の佐々木忠孝が、1945年10月5日から6日にかけて、爆心地から約1,500mの広島赤十字病院に収容されて火傷の処置を受けた。ガーゼにリバノールを塗るだけの治療だった。火傷の上でガーゼを交換するのは非常に激痛であった。広島赤十字病院は、外観だけが残り、窓は吹き飛ばされ、内部は破壊された。原爆投下の日から、病院には被爆者が殺到した。

 被爆者の佐々木忠孝は、広島市中区上八丁堀にあった中国軍管区兵器部に所属していた。8月6日に爆心地から北東約1kmの広島城の近くで被爆して、意識を失って、気がついたときには、広島城の外堀まで吹き飛ばされていた。大火傷を負いながらも、なんとか河川敷に逃げ込んで助かった。8月7日に、トラックで救護所となっていた福屋百貨店に運ばれた。その後に、担架で広島赤十字病院に移送されて入院した。その頃は毎日4から50人が死亡していた。奇跡の生存者がいると紹介されて、映画に撮られた。映画のライトの熱でやけどがピリピリして、その時はこれ以上痛いめに遭わせてくれると偲んだ。原子爆弾の火傷は、驚くほど早くケロイドの瘢痕が増殖した。

 旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班は、10月1日から医学撮影チームの映画撮影が始まった。戦時災害補償法による医療の打ち切りで、すべての救護所が閉鎖されることになった。しかし、病院や救護所では医療支援が行われており、多くの被爆者が原子爆弾による原爆症を患っていた。撮影スタッフは、過酷な状況に置かれている被爆者の様子に心を痛めながらも、抵抗を乗り越えて多くの映像を撮影した。医療班のフィルムは他のフィルムとは異なり、主に負傷した被爆者に焦点を当てている。日本映画者が製作したフィルムは、GHQに接収されてから1967年になって文部省に返還された。





2022年2月12日土曜日

1945年9月20日頃から長崎で原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付き救護活動をした。

 長崎原子爆弾の炸裂後の3日後から長崎医科大学の第11医療隊で、永井隆は被爆者救護の診療をした。永井隆は三ツ山の借家の救護所にて1945年10月頃に撮影された。9月20日頃から原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付きながら救護活動をした。

 永井隆(Takashi nagai,島根県出身,1908年2月3日~1951年5月1日)は、長崎原子爆弾で被爆した放射線科医師であり、浦上の聖人と呼称された作家である。戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足でも透視を続け、1945年6月にX線被曝による白血病と診断されて余命3年の宣告を受けた。日中戦争で1937年7月から広島歩兵連隊の軍医として中国に出征して、日本に帰国した1940年2月頃に発病と推定された。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下された。原爆投下時に、長崎医科大学病院の放射線科に勤務して、右側頭動脈を切断する重傷を負った。他の医療スタッフと共に原爆被害者の治療に専念した。8月11日に永井は妻が死亡して破壊された自宅を発見した。9月20日頃に原爆病が発現して、傷が壊死して始め高熱が続き昏睡状態に陥って、一時的に危篤となった。1945年10月15日に爆心地近隣の浦上に戻り、6畳ほどの小屋を建て、家族と一緒に留まった。1947年に聖ビンセント・ド・ポール協会(SSVDP)が、2畳の茶室の建物を建て、永井は「如古堂(Nyokodo)」と名づけ晩年は祈りと思索にふけった。

 永井は教育活動も再開し、本の執筆も始めた。最初の作品「長崎の鐘」は、原爆投下1周年の1946年8月までに完成した。『長崎の鐘(The Bells of Nagasaki)』は、GHQ側の検閲から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本の条件で、1949年1月日比谷出版社から出版された。

 1946年7月に長崎駅のホームで倒れて、体が不自由になり、以後寝たきりになった。1951年5月1日午後9時40分頃、永井は意識を失った。心肺蘇生剤した後、午後9時50分に43歳で病死した。翌日、遺言により病院で検死が行われた。脾臓は3,410g(正常値は94g)、肝臓は5,035g(正常値は1,400g)に膨れ上がった。





2022年2月5日土曜日

ABCCは、広島原子爆弾のケロイドの瘢痕がある女子と男子と認識番号を撮影した。顔面にケロイドが膨隆した若い女性は、髪を結い上げられて写真を撮影された。

ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)は、1947年7月7日女子と7月5日男子を、広島原子爆弾によるケロイドの瘢痕がある若い男子と女子の被爆者として認識番号を保持させて撮影した。さらにABCCの調査員は、右顔面の頬から耳かけて膨隆した若い女性の髪を結い上げて、羞恥心を伴う異様で醜いケロイドを露出させて写真を撮影した。ケロイドのある男子生徒を校庭ばせて写真を撮影した。ABCCの写真は、ニール中尉から日本側の都築正男調査団長にも提示された。アメリカ軍側は、原子爆弾に関する大量の調査記録を集積した。被爆者の火傷は皮膚が再生して瘢痕組織を形成して、さらに過剰に再生して肥大して腫瘤が突出した。引きつれて、かゆみや関節の拘縮をともなった。

 ABCCは、ケロイド状の傷を持つ少年少女の写真を多数に撮影した。すべての学校を訪問して、生徒や教師、職員は全員の調査やデータ収集をした。被爆者は、アメリカ人に助けてもらえると勘違いした。アメリカ人は日本の子供や大人の苦悩にはあまり興味がなく、研究対象として扱った。ABCC研究所では若い被爆者の性器も検査した。ABCCは被爆者の7,500体の死体を病理解剖して、その臓器をアメリカ本国に送付した。

 ABCCは、原爆投下後の広島と長崎の日本人の民間人を救済する思いやりのある救援活動として、日本とアメリカの一般市民には宣伝されていた。生存した被爆者やアメリカ連合軍の医療関係者らが残した記録や伝記、文書、インタビューなどを通して、ABCCは思いやりのある救援活動ではなかった。ABCCの第一の目的は、原子爆弾の人体への影響に関する研究を進めるための被爆者のデータを収集することであった。

 アメリカ軍はマンハッタン計画副責任者のファーレル准将を団長として、医学顧問のオーターソン大佐ら12人が、終戦直後の1945年9月9日に広島原子爆弾の調査に入った。都築正男の日本調査団が10月12日から現地で合流して、原子爆弾の影響調査のための合同委員会が構成された。アメリカ側の合同調査団は、調査結果から診療記録、病理標本、写真などを収集した資料は、1946年1月までに船でアメリカに移送された。日本側の資料の解析はアメリカ軍のみが実施して、内密に膨大な報告書が作成された。これらの接収資料は、ワシントンのアメリカ陸軍病理学研究所で保管された。1973年になって、日本政府を通じて広島大学と長崎大学に返還された。




2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

 中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。





2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日にその後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。




2022年1月15日土曜日

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年の健二が、二次放射能による残酷な急性髄質白血病により12歳で死亡した。

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富代さん(41歳)は、相生橋、大手町、吉島町などの被爆地周辺を歩き回り、叔母を探していた。母は一時髪が抜けて、吐き気や下痢を伴って、1946年1月4日に健二が誕生した。

 健二が11歳の1956年11月頃から体重が減少した。1956年の5月頃から、左膝下に腫瘤ができ、腫物が多発して、38.9度以上の熱が続き、やせ細っていった。手足の痛みやだるさを訴えて、1957年5月23日に広島大学病院に入院した。原爆による急性髄性白血病と診断されて、原田病院に入院して治療を受けて、6月5日に広島原爆病院に転院した。白血球数は301(通常は6000~8000)、赤血球数は172万(通常は400万~450万)、ヘモグロビンは36%(通常は95~100%)と、深刻な血球減少を示した。肝臓と膵臓が腫れて、髄質性白血病の末期で、終末の貧血であった。広島原爆病院では、直接被爆していない母親の子供が白血病になったのは初めであった。布団から飛び出した手足は、やせ細り骨と皮だけだった。お腹が痛くなり、最後には全身の骨や腸が痛くなって、とても苦しんだ。全く食欲がなかった。健二は6月21日朝4時5分に死亡した。

 原爆病の健二は、死という絶対的な運命を目前にして、「僕を撮影してください......」突然か細い声で言った。父も「写真を撮ってください」と言った。家族に枕元に集まっ撮影した。天井に吊るされた千羽鶴や歌仙も撮影した。午後4時頃、体温と脈拍を測りに来た看護師を撮影した。6月21日午前7時には広島原爆病院で遺体を安置する部屋に健二はいた。被爆者の遺体は、死後数時間以内に解剖されて、すべての資料は比治山のABCCに運ばれた。健二は、休憩室の床に敷いた布団の上で、白いガーゼで顔を覆っていた。

 神棚の前から健二の名前を呼んでも、写真から声はなかった。恐ろしい放射能は親愛なる健二の骨の髄まで食い込み、胃まで食い込み、地獄の苦しみへと陥って、約一年間にわたり残酷に苦悩した。神棚の前に座って、神仏に平和と原水爆の廃絶を祈った。宇品港から船で約3時間にある豊島にて、健二の墓は瀬戸内海を一望できる高台で「釈慈海」と書かれた。仏壇の線香に火をつけて、心から健二の冥福を祈った。原爆禁止運動にも協力してください。(Domon Ken) 





























2022年1月8日土曜日

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmで被爆して、窓のガラスが爆風で粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びて、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。

広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。

 長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。

 原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。




2022年1月2日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された。顔面から両方の上肢に被爆して火傷とケロイドを受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。

 1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。

 広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。




2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

 1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッド上に座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射能に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っていた姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。