2022年7月30日土曜日

長崎原子爆弾の翌日8月10日朝に、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町では、警防団の救援隊がかけつけ被爆者に配給をした。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて長崎市内で炸裂した。翌日の8月10日の朝になって、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町付近にようやく警防団の救援隊がかけつけた。炊き出しのおむすびなどを配給をし始めた。町内の警防団は、非常時の町内の炊き出しのため窯を作りに使役に出て働ていた。その他に、警防団は、がれきの中から死体を運び出す作業に追われた。8月9日夕方近くから近郊の大村海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊が長崎市内に入った。長崎周辺の警防団員が集められて長崎市内に救援に参集した。被爆者は警防団の人たちに手を貸りて、救護所に運び込まれた。長崎市内まで作業に行った警防団には、早くに原爆症で死亡者も出た。死体の処理作業や海中や焼跡など部分的な処理作業が続けられた。

 1945年8月9日に、アメリカ軍のB-29爆撃機ボックズ・カーはプルトニウム爆縮型の原子爆弾を搭載した。ファット・マンと呼称した原子爆弾を搭載して、テニアン島を出発した。第一目標は、小倉工廠であったが、小倉上空に到着してみると地上の激しい靄と煙に覆われていた。B-29ボックスーのパイロットであったチャールズ・スウィーニーは、第二目標である長崎の三菱魚雷工場に転換した。長崎市に住んでいた約28万6千人のうち、約7万4千人が死亡、約7万5千人が重症を負った。

 1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に2発目の原爆を投下し、日本はついに8月15日に無条件降伏に陥った。悪天候が予想されたために、8月9日に投下される計画になった。午前1時56分、スウィーニー大佐の指揮のもと、B-29爆撃機の特別仕様機ボックスカーがテニアン島から離陸した。長崎原子爆弾は8月9日午前11時2分に、上空約500mで炸裂した。爆発は、約2万2千トンものTNT火薬の威力であった。街を囲む丘が破壊力を軽減したが、爆風と熱線で死体が消滅し記録も破滅して、約6万から8万と予測された。原子爆弾のマンハッタン計画の責任者であるレスリー・R・グローブス将軍は、8月17日か18日までにもう一つの原子爆弾を日本に対して投下して炸裂させる準備ができていたが、日本の無条件降伏で投下の必要はなくなった。 




2022年7月23日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下された翌日から本川国民学校の鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となり、体動する被爆者だけを、二階の教室に運び治療をした。

1945年8月末に、広島原子爆弾による一部の被爆者が本川(ほんかわ)国民学校の臨時救護所に収容された。本川国民学校の外壁が焼け残った校舎は、広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となった。多数の被爆者が救護で集散して混乱を極めた。校庭では、一部の被爆死した被爆者の死体を集積してから火葬した。まもなく学校は,西校舎1階を中心に,負傷者を収容する臨時救護所となった。臨時救護所では,軍の衛生班をはじめ,近郊で生き残った者たちが被爆者の救護や遺体の処理にあたった。

 本川国民学校は、爆心地から西北西約410mと最も近距離の学校であった。広島原爆の爆風は窓枠を吹き飛ばして、壁はくの字に曲がり、約4,000度もの熱線は校内を火の海と化し、教材は全て燃え尽きた。校舎は、鉄筋コンクリート造であり、構造は丈夫に造られて倒壊を免れた。校舎は外郭のみを残して完全に全焼と全壊した。約10人の教職員と1・2年生の低学年の児童や疎開できない児童の約400人の全員が被爆死した。原爆の炸裂時に運動場にいた子どもたちは一瞬にして原爆に巻き込まれて、爆風と熱線と放射線に被爆して、即死して真っ黒焦げになった。その中で偶然に約1人の先生と1人の生徒のみが生き延びた。3年生以上の児童は、1945年4月までに備後十日市・八次国民学校に集団疎開をして被爆を免れた。

 爆風をもろに受けたL字型の校舎は、窓枠は吹っ飛び、壁がくの字に折れ曲がった。運動場で遊んだ子どもたちは一瞬にして真っ黒焦げ、爆風により壁に叩きつけられた。教室の中にいた子ども達は窓ガラスの破片を受けて重症に陥った。爆発時の強烈な熱線により自然発火した炎が窓から窓からにごうごうと一斉に吹き上げ、机、椅子・黒板・本・その他の天井板・床板などを燃やし尽くした。逃げ遅れた子ども達の死体が教室内で黒焦げで発見される。特に本川国民学校臨時救護所の被爆者は悲惨であった。床の上にゴロ寝した被爆者は、みな灰をかぶって、一見して生死の区別がつかなかった。膨大な被爆者を前にして、体動している被爆者だけを、二階の教室に運び治療をして、その他の人は見捨てる結果になった。







2022年7月16日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒され崩壊して、外には死んだ馬の死体が横たわった。

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒されて崩壊した。分厚い鉄筋コンクリートの階段が一瞬にして崩れた。約1,400人の関係者が被爆死した。長崎三菱製鋼所の外には、死んだ馬の死体が横たわっていた。15歳で被爆した松添鶴次が働いていた地下の魚雷兵器工場は、爆心地から約2.3kmもあり比較的無傷であった。

 松添鶴次は、長崎原子爆弾の被爆時は15歳あった。長崎市内の爆心地から約1.8kmの長崎市大橋町にて、長崎師範学校の学生寮で直接に被爆した。兵器工場で学徒勤労して夜勤上げで寄宿舎に戻っていた。熟睡している時に、1945年8月9日午前11時2分に原子爆弾が投下され炸裂した。寄宿舎の周囲の壁は崩れて、白い粉の埃が回った。突如にまるで火の粉を振りかけられ、慌てて白い粉を払い除けた。玄関に通じる廊下の窓が粉砕して、窓から飛び降りて外に出た。瞬間的に高圧を受けて疼痛を伴った。

 学校の敷地を出たら、芋畑の中を走り抜けた。近隣に両側が崖となる防空壕に逃避した。多数の地域の避難者が防空壕に逃げ込んだ。右上腕から胸に大火傷して、皮膚が腫脹して水疱が発生した。その後にはケロイドが膨隆して、右肘関節と右手関節が拘縮した。

 原子爆弾が投下されて約1時間半後に、長崎師範学校と寄宿舎も炎上した。寄宿舎の中では、倒れた柱の下に挟まれて身動きできず炎上に巻き込まれた。助けてくれと叫びながら焼死した。学校の周囲の長崎市大橋町から爆心地にかけて、全域から煙が立ち上った。金毘羅山から稲作山には真っ黒な雲が立ち上った。長崎の浦上駅から長崎駅にかけて全域が燃えた。治療の油を求めて学徒勤労した住吉トンネルの地下工場に向かった。その途上の電車通りに出て、道ノ尾方面に赤迫まで徒歩した。出血が浴衣まで染めて貧血状態でいた。長崎医科大学前の電車通りには、多数の重症の被爆者が道ノ尾方面に救護を求めて死の行進をした。長与国民学校に列車で避難した。校庭は死体安置所となった。長崎原子爆弾が投下されて2日後に、父親とともに川棚町の実家に戻った。松添鶴次は戦後に新聞記者に勤務した。退職後に、川棚史談会にて長崎原子爆弾の被爆体験を戦争史として文章化した(長崎平和推進協会)。



2022年7月9日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.1kmの木造家屋内で、女性は被爆して約2週間後頃から、急性放射線障害により脱毛が始まった。

広島原子爆弾の爆心地から約1.1kmの木造家屋内で、女性は被爆した。被爆して、約2週間後頃から、脱毛が始まった。原子爆弾から放出される放射線によって、毛根の根布が、一時的に損傷されて発症した。脱毛は通常は、被爆後の約2週間で始まるが、約4〜5日後の早期に発症事例例もあった。2ヵ月以後まで生存被爆者では、毛髪の再生が始まった。

  原子爆弾による急性放射線障害の症状の一つに脱毛がある。原爆投下して炸裂後に数日から数週間の間に、高線量の被爆者は、発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、血性下痢、脱毛、紫斑または点状出血、喉や口の中のただれである鼻咽頭潰瘍、歯の周りの歯肉の崩壊と潰瘍である壊死性歯肉炎を発症する。症状の発現時期は様々であるが、重度被爆ほど早期に発症する。約200Rad以上を被爆すると脱毛が発症する。頭皮以外の脱毛は非常にまれであった。1970年に長崎市に在住した被爆者9,910人を、原爆による急性症状と脱毛の有無とその後28年間の死因との関連性は、脱毛があった被爆者は、脱毛がなかった被爆者に比較して、癌による死亡率が高かった。

 脱毛する髪の毛は、毛包や毛球に内在する細胞群が産生するタンパク質で形成される。細胞群は、放射線や毒性化学物質、癌の化学療法剤などで毛包が萎縮して細胞障害される。脱毛部では、毛髪の母細胞である毛母基、内毛根鞘、外毛根鞘がより重度に傷害された。脱毛の発現率は、爆心地からの被爆距離に相関して、近距離ほど高頻度に発症した。髪の毛は細くなり、櫛でとかすと簡単に切断されて、脱毛が発症する。毛包や毛球の細胞群は、他の細胞よりも、約23時間から約72時間ごとに繁に分裂するので、損傷を受ける。組織の損傷は、放射線への曝露後の組織内の分子の化学的性質の変化に発症する。放射線による損傷の主な原因は、放射線が水分子をフリーラジカル化の変化に起因した。



2022年7月7日 Japan No Atomic Bomb (JNAB)
日本原爆禁止の会 視聴回数 360,000回, 448投稿


2022年7月2日土曜日

広島市は1952年7月28日から30日に、広島県安芸郡坂町の小屋浦・小只谷など5ヶ所にて、死後の処置された被爆者の死体を発掘した。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分にアメリカ軍が投下して炸裂した。炸裂した当日から、広島市の南西部で広島市と呉市の中間地点である広島県安芸郡坂町には、日本軍の救護所が設置された。次々に重態の被爆者が広島市から護送された。その他には、広島市内から徒歩で多数の避難者や被爆者が、坂町まで逃避した。坂町までたどり着いた被爆者は、原爆症により次々に原爆死した。死体の処理が追いつかずに、多くの死体は土の中に直接に埋葬する土葬からあるいは火葬後に埋葬された。

 1952年7月28日から30日までの3日間に、広島市は、広島県安芸郡坂町の小屋浦・小只谷などの5ヶ所にて、死後の処置された被爆者の死体を発掘した。約156死体は土中に埋葬されていた。約60死体が死後に野ざらしになっていた。約36体が死体を火葬後に土中に埋葬された(広島原爆戦災誌, 1971年8月6日発行)。改めて供養して、平和記念公園の原爆供養塔に収納した。広島に原子爆弾が投下され多くの被爆者が坂町に運ばれて来て、住民の看護の甲斐もなく約半数の被爆者が死亡された。坂町には小屋浦海水浴場休憩所や小屋国民学校にも、臨時救護所が設置されて約360人が収容された。

 小屋浦海水浴場と暁部隊野戦病院が8月6日に開設されて、約200人が収容されて、約150人を埋葬して、8月20日に閉鎖された。小屋浦国民学校も8月6日に開設されて、約60人が収容された。小屋浦火葬場で約40人が火葬されて、8月20日に閉鎖された。1971年8月6日に発行された広島原爆戦災誌に、坂町小屋浦を名指して約7年間死亡した被爆者の約60体を野ざらしと記載された。坂町の慰霊碑奉賛会は、「野ざらしの誤記に憤りて 散りしける 藪椿の実ぞ 永久の語部」と広島原爆戦災誌の誤記を訴えて、1989年の広島市制百周年に発刊された広島原爆戦災誌改訂版で、野ざらしの記載は抹消された。




2022年6月25日土曜日

広島市第一国民学校の残存校舎に収容された多数の被爆者は、広島原子爆弾が炸裂して5日後の8月10日に救護されていた。

広島市第一国民学校は、被爆直後から残存校舎の講堂・工業教室が、一般被爆者の臨時救護所として、1945年10月上旬まで使用された。第一国民学校に収容された多数の被爆者が8月10日に収容されて救護されていた写真である。校庭の一部は、9月10日まで仮火葬場として使用された。臨時救護所は10月初旬に閉鎖した後に、10月中旬までに教室を整備して学校を開校して再開して、臨時の仮教室として、講堂・工業教室・西校舎を使用した。

 広島市第一国民学校(現・広島市段原中学校)は、爆心地から約2.6kmに位置していた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下され炸裂した直後に、第一国民学校の北側木造校舎は東側校庭に全壊した。西側校舎・東側校舎(コンクリート造)・講堂などは、窓枠と窓ガラスが全壊したが、倒壊には至らなかった。倒壊した校舎や周辺の住宅からの火災の引火はなかった。1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市内の国民学校 約33校が救護組織と救急薬品を持つ救護所に指定された。

 第一国民学校は、原爆の炸裂時には職員約20人と学生約580人は校外に動員されていた。第一国民学校内には、学校管理2人、児童約6人、小使い1人のみが残存した。学外の教職員1人が即死、約9人が傷害であり、児童は約46人が即死、約50人が傷害、約2人が行方不明となった。学内では給食係の1人の女子生徒は倒壊した校舎下に死体が約1ケ月後に発見された。原子爆弾の炸裂時に、北校舎の倒壊して学内者は倒壊して一時的に校舎の下敷きになった。第一国民学校の原爆被災説明板は段原中学校正門横に建立されたが、2014年に広島市南区段原山崎の段原山崎第二公園に移設された。





2022年6月18日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの広島市古田町高須の白壁に、高い放射能と泥成分を含む大粒の黒い雨の水滴が流れた跡が残存した。

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの古田町高須の白壁に、黒い雨の水滴が流れた跡が残った。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂して、午前9時から午後4時にわたり、高い放射能を含む黒い雨の降雨を伴った。大粒の大雨が、約1時間から2時間ほど、泥成分を含んだ黒い雨が降雨した。黒い雨を浴びた被爆者は、第二次放射能障害を発症して、黒い雨が流れ込む川や池では、死んだ魚が白い腹を上にして、飲水した牛などは下痢等の原爆症を伴った。 

 原子爆弾の炸裂後に、巨大なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20~30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れた。その下の地域に黒い雨が降った。雨の中には、爆発のときにまきあげられた泥どろやチリ、火事のススなどのほかに放射性物質が含まれた。爆心地から遠く離れた地域の被爆者の中にも放射線障害が出現した。

 広島原子爆弾の影響による黒い雨は、降雨は爆撃の閃光後約20分から~1時間後に降り始めた黒い雨が多かったと日本学術会議調査団は報告した。その中には火災により発生した収斂性上昇気流に起因して黒い雨が、約2時間後に降り始めた地区もあった。黒い雨は、原子爆弾の炸裂による直接的な上昇気流による黒い雨と、原子爆弾の炸裂から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なった。黒い雨の性状は非常に特殊で、最初は黒い泥分が多く粘り気を伴った。黒い雨は約1から2時間継続して、次第に黒色が薄れて遂に普通の白い雨となった。原子爆弾の炸裂直後から、黒い雨が降雨した土壌から、放射性物資が検出された。

 広島原爆戦災誌に、黒い雨が次のように記録された。「被爆当日は、終日、巨大な塔状の積乱雲が発達した。その黒雲は、爆発後約20分ないし約30分から、つぎつぎと北北西方へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって「黒い雨現象」を起した。驟雨(にわか雨)は、市中心部では軽く、西部(己斐・高須方面)と北部(可部方面)では土砂降りの豪雨となった。」

 広島原子爆弾により広島周辺に発生した激しい火災は、大量の灰を大気中に運んだ。灰は雲に種をまく効果があり、炸裂から約1から2時間後に黒い雨が降った。黒い雨には、灰、放射性降下物、水が混在して、ほとんどタール状の粘性をもった。黒い雨を素肌に受けた被爆者には、重度の放射線火傷が発生した。爆心地から遠く離れても、黒い雨の放射能被害を受けた建物の壁の一部である。雨は破損した屋根を通り抜けて、壁を伝い、漆喰のような黒い跡を残した(ORAU: Museum of Radiation and Radioactivit)。

 黒い雨は、原子爆弾の炸裂で、核分裂を伴うウランやプルトニウムの核分裂粒子から約200種類の放射性同位元素が発生した。原子爆弾の中性子により、大気中に大量に放出された。大量の放射性物質と暴風雨による熱と熱流が混在して、原子爆弾の炸裂後約30から40分で黒い雨の降雨に見舞われた。放射性降下物の粒子は、都市全体の火災から生じた炭素残渣と混在して、有害な黒い雨が降雨した。黒い雨は、粘り気があり、黒く、危険な放射能を含んだ水として地上に降り注いだ。皮膚や衣服、建物を汚しただけでなく、呼吸や汚染された食物・水の摂取によって摂取し、放射線障害を引き起こした。




2022年6月11日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後の熱線で、爆心地から約880mにある万代橋を渡っていた人と荷車の影がアスファルトに焼きついた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約880mにある元安川にかかる万代橋(よろずばし)が、原子爆弾から強烈な熱線を浴びた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後の猛烈な熱線の閃光を浴びて、万代橋を渡っていた人と荷車などが焼失して、その影のみがアスファルト上に焼きついた記録写真が残存した。橋床にできた影から、歩く人影が想定された。長い足の影は床面におろして、片足をあげていた人影も想定された。万代橋上には、荷車をひく影や、リヤカーの影も残存した。リヤカーを引いていた人は、元安川に転落死した証言もある。広島原爆戦災誌には「橋床上に5人の通行者の影が残っていた。被爆直後は火が出て渡れない時もあったが、損傷は少なく通行できた」と記録された。さらに万代橋の床面のアスファルトには欄干の影が焼き付いていた。その柱の影は明瞭であり、柱と柱の間の鉄棒は、一番下の段が映っているだけで、二段目のものから上はボケていた。

 熱線で焼き付けられた欄干の影で、原爆爆発点の高さが算出された。欄干が吹き抜けで、万代橋自体は倒壊せず、熱線で焼き付けられた欄干の影などから、地上から上空の原爆爆発点までの距離(約580から約600 m)が算出された。1945年10月26日に、アメリカ軍調査団は、原子爆弾の熱線の方向を橋上で再現した。長い影はモンペでもはいて歩いていた女性の影、短い影は片足をあげた瞬間の姿と想定された。大手町と加古町(旧町名:水主町)を結ぶ重要な生活道路と交通の要として架橋された万代橋は、広島県庁が主水町に所在して、県庁橋とも呼ばれた。1878年に木造橋として架橋された。1916年に、ドイツ軍技師が架け変えた。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の影がはっきりと映った。影の落ち方から原子爆弾の爆発の方向を算出した。1981年12月28日に、広島市の大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終結して、新橋の開通式が挙行さた。万代橋の名前を残して、広島原子爆弾に被爆した欄干に影が焼き付いていた旧橋の姿は消滅した。



2022年6月4日土曜日

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。新聞に白血病に対する輸血用の血液を求める記事が掲載された。1945年8月6日に広島市内に原子爆弾が投下されてから、約25年経過しても、夏の8月6日が近づくと毎年に原爆症の記事が掲載された。父親の森井一幸は、爆心地から約1.5kmの広島県立師範学校内で被爆した。終戦後も健康で教師を勤めて、結婚して長男と次男の森井昭夫が誕生した。

 面会謝絶(担当医)されるも、病室にて父親の森井一幸に、新聞の白血病の献血の記事を紹介した。次男の森井昭夫さんが、父親の手を握ってしきりに憤っていた。うつむいたままの父親は、しばらく考えた上で、記者に次男の森井昭夫さんの撮影を許諾した。病室の隅でうずくまって、看病疲れで憔悴しきった母親が拒絶した。父親が慟哭した母親を制して、みなさんにも写真の紹介を認可した。次男が生死の間際に追い込まれていた。次男は、「怖い、怖い、パパ、お家に帰る、お家に帰ろうよ」と泣き始めた。父親がなだめるも、「嘘だ、嘘だ」と次男の昭夫は大声で泣き叫んだ。

 次男の昭夫は原爆症により急性白血病を発症した。広島大学附属病院に入院して、一日に何本も看護婦からら注射されていた。看護婦が入るたびに、痛みを恐れて怯えて泣き出して、暴れる次男を両親が抑え込んだ。寝ている間も、ずっと両親の手を握っていた。親は不憫となり、病院の治療を諦めて在宅死も相談していた。眼底出血を止血するために、右目にガーゼの眼帯を装着していた。閉じた左目には涙が溜まっていた。カメラのシャターを切るたびに、目を覚ませていた。ベッド上の次男の昭夫の身体は、皮下出血して青白く腫脹して、青黒い紫斑の末期症状を伴っていた。輸血瓶から点滴する血液が、静脈に突き刺した太い注射針から流れ込んだ。白血球は約1,200で約七分一に減少して、赤血球は約二分一まで減少した。献血で集めた血液を毎日約800cc輸血した。1971年6月過ぎてまもなく白血病で病死した。

 原爆二世は、原爆症だけでなく、結婚・就職・差別など社会的な不利を招いていた。広島と長崎の原爆二世は、約17万人が結婚適齢期を迎えて、被爆三世も誕生している。文部省も、原爆二世は出生当時から虚弱児であり、成長後も障害を訴えている。第五福竜丸や水爆実験で1957年に施行された原爆医療法は、原爆症の認定者はわずか約4,200人であった。原爆二世は被爆者ではなく、森井昭夫は原爆医療法の適用から除外された。



2022年5月28日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建て木造消防署が瓦礫となり、数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下敷きになった。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂して、午後2時頃に広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建ての木造消防署が瓦礫になった。数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下に閉じ込められた。消防署と自宅の間にある電車路を通行人が歩行した。理髪店の窓の外から、瓦礫となった西消防署皆実出張所の惨状が撮影された。原子爆弾による爆風により、周辺地域は崩壊したが、熱線による炎上は免れた。理髪店内も、爆風によって悲惨に崩壊して瓦礫が散乱していた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した当日1945年8月6日の人的被爆の写真は、中国新聞社の元写真記者である松重美人(1913–2005)が現像できた5枚の写真ネガのみが残存した。原爆投下された当日の広島市民に対する人道的被害を撮影できた唯一の写真となった。長崎原子爆弾が炸裂した8月9日当日の写真は皆無である。原爆被爆写真が著名となると、元軍人が被爆写真の著作権を巡って訴訟を起こした。裁判所で第一、二審の勝訴が、最高裁判所の裁定で1998年に松重美人に確定した。 

 広島原子爆弾による1945年8月6日当日に撮影された原爆写真は、中国新聞社が原爆資料館の資料などを基に2007年に調査して確認できた写真はネガがないものも含めて35枚であった。そのうち25枚は原爆のきのこ雲であり、炎上した広島市街地は4枚あった。さらに被爆者を乗せて広島市の郊外に向かうトラックが1枚あった。原子爆弾の炸裂による被爆者の悲惨を収めたのは松重美人の5枚のみの写真であった。御幸橋の惨状の写真が初めて中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」に1946年7月6日付で掲載された。GHQの検閲を避けるために米誌が全世界へ紹介との脇見出しが付けられた。実際に世界的な写真誌「ライフ」に掲載されたのは、GHQ占領が終わった後の1952年7月29日であった。



2022年5月21日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月7日から大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。

 大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。爆心地から北に約2.4kmにあり、校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたために、大芝国民学校を臨時救護病院を特設した。1945年8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれて、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。火災の勢いが鎮まると、救護者らは引き返して再び救護の任務についた。救護者中には、被爆日には医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいた。救護者は専門を越えた不眠不休の医療活動が実践した。

 太平洋戦争直前に1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。同年、広島市永年防空計画によって、広島市内の国民学校33校が学校長を担当者とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、女学生、女子青年団員等で組織された救護組織と救急薬品を持ち、約300人以上を収容できた。 

 大芝国民学校は、広島原子爆弾の被爆と同時に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して、縦長に建っていた棟は倒壊を免れた。校内は被爆者は発生したが、死者はいなかった。8月6日当時から、被爆者らが大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあたった。

 大芝国民学校は、1916年4月1日に創立された。広島原子爆弾の炸裂により校舎など被爆した。約600人の日本陸軍兵士と先生が消火にあたった。子供がガラスの破片で傷を受けたり、頭部などに打撲や負傷を受けた者も数人いた。死亡者はいなかった。

 被爆した当時から、被爆者が校舎や校庭に殺到した。8月7日から臨時救護病院を特設されて、学校の先生も手伝った。破壊された教室に多数の被爆者が収容されて入所した。1945年10月になってから、大芝国民学校の運動場に机や板きれを出して、青空教室で授業をした。学用品や教科書がたらず、教科書などを見せ合って勉強した。




2022年5月14日土曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。婦人は、顔面から背中と左上肢にかけて被爆して熱傷した。医師と看護婦が火傷した部分に薬品を塗布して、ガーゼをピンセットで覆った。火傷も、限られた医薬品の中で処置して治療した。

 1945年8月6日午前8時15分に、広島原子爆弾が投下して炸裂した。広島逓信病院には、原子爆弾が炸裂した直後から、数多くの被爆者が負傷者が押し寄せた。医療関係者はは懸命な治療に当たり、広島市内に残存した少ない医療機関として、医療から研究調査面で重要な救護を果たした。当時は広島逓信病院は、爆心地から約1,370mであった。爆心地から2km以内で残存したのは広島赤十字病院と広島逓信病院のみであった。1922年に広島逓信診療所、1942年に広島逓信病院が開設された。

 広島原子爆弾による爆風により、鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、ほとんどの窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫の類焼などにより、2階の内部は完全に全焼して、コンクリートのみが残存した。懸命な消火活動により、1階と地階は火災から免れた。アメリカ軍の空襲に備えて被爆する約1カ月前から、入院患者の全員を退院させて退避さて、人的被害は比較的軽微に納まった。火勢が弱まった8月6日被爆当日の夕方から、数多くの被爆者が押し寄せ、医療関係者は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行いながら、懸命な救護をした。医薬品は、8月9日頃には枯渇した。

 一時的な隔離病棟では、原爆で被爆死した被爆者の病理解剖の剖検を行うために使用された。剖検は毎日夜遅くまで続き、その数は30に達した。近隣の広島通信局は、治療を終えたものの帰宅できない人や家族の仮設住宅となった。建物の修繕の見通しが不透明なこれらの被爆者は、窓やドアのない場所に住み、冬の到来に直面した。広島逓信病院院長の故・蜂谷道彦は、世界初の原子爆弾が投下時から9月30日までの原爆症の日々の診療記録を1950年に公表した。原爆傷害調査委員会の外科顧問であったノースカロライナ大学チャペルヒル校のワーナー・ウェルズ博士の協力により、1955年にUNC大学出版会から「ヒロシマ日記:Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945」が出版された。





2022年5月7日土曜日

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に猛烈な爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。

 広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。原子爆弾により直接に被爆して聴覚障害を伴った。被爆者は、左耳介から左頬部から頸部の一部に、火傷とケロイドを伴っていた。広島原子爆弾が炸裂した直後から被爆者の左耳を処置したのは、広島赤十字病院の耳鼻科医長である高原滋夫であった。高原滋夫は、1946年に母校の岡山大学医学部の耳鼻科教授に就任した。世界初のカタラーゼ酵素の無い血液病であるアカタラセミアを発見した。

 聴覚器は、最も敏感な圧力を変換する感覚器であるため、爆傷の影響を受けやすい。爆発物が爆発すると、爆発点から離れて膨張する高圧ガスが放出された。周囲の空気が圧縮され、爆風が生成されて伝播した。爆風に関連する髙エネルギーの圧力は、身体に壊滅的な外傷を及ぼした。聴覚器に対して高圧波から、破片が組織に侵入、身体を引き倒して爆傷した。

 爆風による難聴は、鼓膜の穿孔と破裂、骨の損傷、基底膜の損傷、内有毛細胞と外有毛細胞の喪失、正円窓の破裂、蝸牛液の化学成分の変化、血管痙攣、虚血、酸化ストレス、興奮毒性を伴う。最初に損傷を受けるのは、鼓膜穿孔を伴う。耳鳴りから難聴、めまい、頭痛などの聴覚障害を伴う。聴覚器と空気の接合部が、空気の密度が著しく変化すると障害される。内耳の蝸牛まで介されると永続的な難聴を伴う。爆風の過圧は、伝音難聴、感音難聴、混合難聴など、あらゆる種類の難聴を引き起こす可能性がある。

 世界中で即席爆発装置(IED:Improvised Explosive Device)が、ますます戦争だけでなくテロ攻撃などで頻繁に使用された。主にアメリカ国防総省に調査で、聴覚器に障害を持つ軍人の中で、耳鳴りから難聴を発症した。壊滅的な爆撃を生き延びた後にも、膨大な兵士や民間人は長期的な聴覚障害に苦悩した。



2022年4月30日土曜日

広島原子爆弾の炸裂により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。

広島赤十字病院は、広島原子爆弾の被爆直後から押し寄せる被爆者の診療の補助と療養上の世話など多忙を極めた。広島原子爆弾により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。担架で運ばれた被爆者は入院に、外来には、被爆者が詰め寄せた。被爆者は、原子爆弾の猛烈な爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、悲惨な身体に変貌した。傷口には、チンク油やリバノール液をガーゼで塗布した。ホウ酸水で洗浄した包帯で、創部の傷口を覆った。カーテンを裂いた包帯を巻いた。爆風により、突き刺さったガラスを除去した。

 広島赤十字病院は、被爆直後から救護活動を開始した。各所に救護テントを増設して救護した。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医療関係者や職員らは約51人が死亡して、約250人が重軽傷を負った。市中心部で焼失を免れた数少ない病院であり、め、治療を求めて被爆者が殺到した。鉄筋コンクリート3階建ての病院は、外郭だけが残存して、猛烈な爆風によって窓ガラスは吹き飛び、室内も無惨に破壊され、悲惨な被爆した建物となった。木造であった看護婦生徒寄宿舎はほぼ全壊して、火災により類焼した。看護婦には、原爆症と過労のために血便も続出して、貧血に陥った。看護婦は、身を横たえた末期の被爆者を、できるだけ楽に死に行くように見守った。水道水で、身体を清拭して、末期の水を求める被爆者には致し方なく禁忌の水を含ませた。排泄介助、感染予防などから死体の処理まで担当した。

 戦時体制に向けて、国家の全ての人的・物的資源を、日本政府が統制管理する1938年に国家総動員法が成立した。1944年8月23日には、太平洋戦争時下の労働力不足を補うために、中学以上の男子生徒と12歳以上の未婚女性を強制労働に動員できる学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が交付された。戦時体制下の看護婦も巻き込まれて、従軍看護婦など兵役勤労にも動員された。 


2022年4月23日土曜日

世界初の原子爆弾が炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。

世界初の原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。無差別な原爆投下により約8万人が即死して、広島市内のほぼすべての建物等が破壊または破損した。

 広島原子爆弾により両親を亡くした孤児は約2,000人とも6,500人と推定された。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らした。1947年末に、広島市周辺には5施設の孤児院が設置された。孤児院は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が困難であった。

 1949年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆であったノーマン・カズンズ(1915~1990)は、被爆の惨状を視察して、広島戦災児育成所で原爆孤児に強烈な衝撃を受けた。カズンズはアメリカに帰国後、「4年後のヒロシマ」と題する記事を公表した。原爆孤児をアメリカ人の養子・里親を呼びかけた。孤児の「道徳的里親」を希望する多数のアメリカ人が名乗りをあげた。1950年1月に、戦災児育成所の児童71人が養子になった。その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に拡大した。1950年だけでも約233人の養子縁組が成立した。

 アメリカからの支援金は約8,000ドルに達した。広島市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立して、資金の配分や養子縁組の仲立ちした。1953年には最高の409人に達した。1955年頃から減少して、1958年には終結した。8施設で490人あまりの児童が、養育資金の支給を受けて、社会人に成った。カズンズは来日して養子・里親たちとの交流を深めた。日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こす契機になった。