2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日に写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月20日土曜日

1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約4kmの宇品に位置した陸軍船舶練習部の負傷者の収容所に、日本陸軍兵士の被爆者が収容された。1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。人体への急性障害の第3〜5週の主要な症状は、脱毛、紫斑を含む出血、下血等を引き起こして、全身衰弱を伴って死亡した。

 広島市宇品は港湾地帯で爆心地から3km以上へだたって、原子爆弾による被害は比較的少なかった。火災をまぬがれたこの地区へ、広島市内で被爆した人びとが殺到した。宇品の負傷者の救護にあたった施設の一つは、陸軍船舶練習部であった。陸軍船舶練習部は、陸軍の部隊に船舶操作の教育・訓練をほどこす組織であり、大和紡績広島工場を接収して駐屯していた。教育をうける部隊がつぎつぎ入れ替わるので、兵舎は常時満員でなかった。食糧の備蓄もあり、約1,000人程度の給食には事欠かなかった。診療所もあり、救護施設としての条件を備えていた。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂による被爆とともに建物は軽い損傷を受けたが、大破はなかった。その約1時間後ころから負傷者がしだいに集まった。広島市内へ救援に出動した部隊からトラックや舟で送られて来る負傷者がしだいに増えた。8月6日の午後3時頃には数百名の被爆患者を収容した。8月6日中に処置して、あるいは収容した負傷者は、約6,000人を超えたと推定された。陸軍船舶練習部は、野戦収容所というべき状態になった。収容者の多くは重症の原爆病で8月10日から9月中旬までに約3,000人の死亡者が出た。

 野戦収容所となった陸軍船舶練習部は、船舶司令部の命令によって体制をととのえて、8月12日に陸軍船舶練習部臨時野戦病院 となった。8月15日の日本の敗戦とともに、軍部の戦時体制が解放された。船舶衛生機関の名称で救護と医療が継続された。8月25日に、広島第一陸軍病院宇品分院の表札が掲げられた。この期間に8月8日には陸軍省調査班、8月14日には同第2次調査班が入った。船舶練習部を基地として被爆の調査に従事した。





2024年1月13日土曜日

日本赤十字社広島病院において1945年10月上旬頃に、被爆者の佐々木トシ子は日本赤十字社広島病院で左下腿の火傷した皮膚の治療を受けた。家屋は倒壊して、特に左下肢膝部を梁材にて圧迫されて、脛骨、頭部骨亀裂、軟部組織などに多創を受傷した。

日本赤十字社広島病院において1945年10月上旬頃に、被爆者の佐々木トシ子は日本赤十字社広島病院で左下腿の火傷した皮膚の治療を受けた。佐々木トシ子は、広島原子爆弾の被爆により、広島市天満町105の東洋製鉄で受傷した。椅子にかけ執務中に、広島原子爆弾の光芒を見て座せんとして、中腰になりたる時に受傷した。家屋は倒壊して、特に左下肢膝部を梁材にて圧迫されて、脛骨、頭部骨亀裂、軟部組織などに多創を受傷した。日本赤十字社広島病院に入院した。神経損傷はなく左拇趾自動運動は可能なるも、膝関節に高度の拘縮を認めた。運動時疼痛のために左下肢受働位を取った。日赤病院の血液検査は、白血球6200であった。

 日本赤十字社広島病院は、戦時下は広島陸軍病院赤十字病院となり、爆心地から南1.6kmの広島市中区千田町1丁目に位置した。敷地内にあった木造建築は全部倒壊して、間もなく火を発して焼失した。主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであり、焼失は免れた。鉄の窓枠は破壊してガラスはこっぱみじんに飛散した。建物の内部も天井は落ち、壁は崩れ、椅子や机は倒れ、足を踏み入れるのが困難なほど破壊された。

 菊池俊吉が被爆者の写真撮影をした。オリエンタル写真学校を1938年に卒業して東京工藝社に、1941年に東方社写真部に入社した。被爆して約2カ月後の1945年10月に、写真家の菊池俊吉さんは専門家による被害調査に伴う原爆記録映画の撮影に同行して、広島市内の被爆者を何人も写真に収めた。1945年9月に、文部省学術研究会議が編成した原爆被害の調査団に同行して、被爆地の広島を撮影した。旧文部省が編成した原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から20日までスチル写真の撮影に当たった。




2024年1月6日土曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して、男性の背中にはケロイドが発生してきた。1947年には、広島原子爆弾の火傷で男性の背中にケロイド状の傷跡が残存していた。

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して、男性の背中にはケロイドが発生してきた。1947年には、広島原子爆弾の火傷で男性の背中にケロイド状の傷跡が残存していた。生き残った被爆者には、ケロイド状の恐ろしい火傷を負った。極度の熱射でひどく焼かれて、特徴的なケロイド状の傷跡ができた。そのケロイドの瘢痕は最初の火傷よりも大きくなる。ケロイドは、原爆の被爆による火傷した皮膚が治癒する過程で形成された。不規則で異常に突出した瘢痕組織である。瘢痕が蟹の甲羅や足のように見えてケロイドと呼称された・爆心地から約2km以内の被爆者に多く見られ、ケロイドは被爆約4ヵ月後に形成され、その後に6~14ヵ月後に最も膨隆した。瘢痕は、被害者の皮膚が炸裂の初期閃光の熱に直接さらされた部位に形成された。ケロイドは被災者の心と体に永久的な傷跡を残した。顔にケロイドができた人は精神的な苦痛が大きく、背中や肩にケロイドができた人は肌を見せるのをためらった。夏でも長袖のシャツを着ている人が多かった。

 1945年8月6日、アメリカが広島に原爆を投下し、78,000人が即死した。生き残った人々は放射線病と重度の火傷を負い、街は完全に破壊された。広島に原子爆弾が投下された約1秒後に、直径約280メートルの巨大な火球が噴出した。その中心部の温度は摂氏約100万度を超えた。原子爆弾の爆発による熱線は、通過するすべてのものの表面温度を最悪で摂氏3,000度以上にも上昇させる。突然の急激な温度上昇は、周囲の空気を急速に膨張させ、音速を超える爆風を発生させた。爆風の背後の空間の気圧の低下により、進路にいる被爆者の眼球や内臓を破裂させるほど強力な逆流が発生した。爆心地から約1km以内のほとんどの被爆者は即死した。それよりも遠方の被爆者は、街の建物の破片を浴びせられた。

 爆発によって発生した放射線のほとんどはガンマ線で、その他10%は中性子線であった。どちらもDNAに変化をもたらす電離放射線の一種である。中性子の方がはるかに危険であった。広島原子爆弾の呼称であるリトルボーイの約64kgのウランの約10%は最初の核分裂反応によって食べ尽くされた。残りの約90%の放射性物質は爆風によって広島市内に撒き散らされた。その放射線被曝の結果、被爆者の多くは、嘔吐、発熱、疲労、歯ぐきからの出血、薄毛、下痢などの放射線症のは原爆病に襲われた。原爆病の苦しみ、最悪の場合は原爆病死に至った。生き延びた被爆者は、その後にがんのリスクが高まった。その子孫に異常が見られたという証拠は不明である。 



2023年12月30日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約900mの地点の兵舎外の付近で、18歳の男性の日本軍兵士が被爆した。両側の下腿後面には第3度の限局性熱傷を受傷した。露出した皮膚だけの典型的な肉やけどを合併した。

広島原子爆弾の爆心地から約900mの地点の兵舎外の付近で、18歳の男性の日本軍兵士が被爆した。両側の下腿後面には第3度の限局性熱傷を受傷した。露出した皮膚だけの典型的な肉やけどを合併した。18歳男性の被爆者は広島原子爆弾の爆心地から約900mの兵舎の野外にいた。ケロイドの形成を伴う第2度熱傷は部分的には治癒した。18歳男性の被爆者は、広島第一陸軍病院宇品分院で治療を受けた。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下して炸裂した数日後にケロイドを伴う第3度熱傷を受傷した。

 この写真は広島原子爆弾が投下して炸裂した79日後の10月24日にアメリカ軍によってカラーで撮影された。終戦直後にアメリカ軍が原子爆弾の写真資料を日本からアメリカ本国に接収した。その後に28年間もアメリカ軍病理学研究所(AFIP: The Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。約2万点もの資料が1973年5月に日本に返還された。返還された資料は、三つに大別された病理標本、解剖記録、写真等であった。

  原子爆弾の生体への影響は、原子爆弾の電離放射線以外の要因、他の傷害、不潔、悪臭、精神的要因などが、海水障害や嘔吐に関与した。放射線障害の症状は、被爆者内部での発生率の高さによって証明された。爆心地から約1km以内にいた被爆者の嘔吐の発生率は広島で35%、長崎で27%であった。5kmより遠かった被爆者の発生率はそれぞれ1%と2%であった。同様に、食欲不振は広島では約1km以内の被爆者の48%、長崎では37%にみられた。約5km以上ではそれぞれ7%と5%であった。

 爆心地からの距離と遮蔽に関連した吐き気、嘔吐、食欲不振の発生率は、距離とともに着実に減少した。屋外で遮蔽されない内側の区域にいた被爆者の罹患率は、重い建物内にいた被爆者の罹患率とかなり近似した。前者の多くは構造物の陰にいた可能性があり、重い線量を受けた人は致命的な損傷を受けた。防空壕やトンネル内の被爆者には嘔吐が少ない。約2km以内の屋外または日本式建物、約1km以内の重建築物にいた人の発症率は、それ以上離れた場所や防空壕やトンネル内にいた被爆者よりもはるかに高かった。その症状の発生率は、女性よりも男性で高く、特に被爆の多い集団で高かった。火傷の有無は、被爆者の吐き気と嘔吐に有意な影響を及ぼさなかった。




2023年12月23日土曜日

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに、長崎本線の道ノ尾駅前に設置された臨時救護所にて、日赤第713救護班の看護婦が被爆者の顔面と両腕の火傷に包帯を巻いて手当をした。

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに、長崎本線の道ノ尾駅前に設置された臨時救護所にて、看護婦が被爆者の顔面と両腕の火傷に包帯を巻いて手当をした。道ノ尾駅は、爆心地から北方に約3.6kmに位置した。救護している看護婦は、日本赤十字社の佐賀県支部で結成された、日赤第713救護班に所属していた。日赤第713救護班は、8月10日午前4時30分頃の汽車で、佐賀市から長崎市内に向かった。

  写真の看護婦は、19歳の西久保キクノ(旧姓鶴丸)であり、当時は佐賀陸軍病院に勤務していた。西久保キクノは、被爆した翌日の1945年8月10日に、道ノ尾駅の臨時救護所で、日本軍の報道カメラマンであった山端庸介によって6枚の写真が撮影された。終戦から21年目の1978年に、東京の大学に通っていた長男が、21歳の若さで白血病により急死した。原爆の救護に出たから、長男が原爆病死したと自責の念から、その後看護婦を辞めた。

 長崎に原子爆弾が投下された後に、長崎県内や他県からも救護隊が派遣された。長崎市内一帯が壊滅したために、長崎本線の小さな道ノ尾駅が被爆者を救護して移送する最前線の駅となった。爆心地から約3.5kmの距離にある道ノ尾駅は、長崎原子爆弾の炸裂時には、一部の壁が落下して、窓ガラスが飛散した。道ノ駅の駅舎に大きな被害がなく、駅前広場に臨時救護所が設置されて、長崎本線の救援列車の起点となった。臨時救護所には、瀕死の被爆者が集散した。道ノ尾駅の臨時救護所では、むしろがけの2つの小屋に約200人もの被爆者が収容された。救援列車で移送した人数は、合計約3,500人にも上った。乗る順番を待つ行列は、途絶えることなく、プラットホームも道ノ駅の広場にも被爆者で一杯となった。




2023年12月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。お風呂に入る、髪や体を洗う、衣服を洗濯することは、日常的除染を行っていた。水で洗い流すことにより、放射性物質はかなりの量を落とすことが可能であった

 1945年8月15日午前8時15分に、高度約9,630mから広島市内に原子爆弾が投下されて、地上に落ちる直前に爆発した。突然に、空に白っぽく、ピンクがかったまぶしい光が現れて、不自然な揺れを伴った。数秒のうちに、広島市の中心部の通りや庭にいた何千人もの人々が、焼けつくような熱の波に焦がされた。多くの人が即死して、他の人たちは火傷の耐え難い痛みに悶え苦しみながら地面に横たわった。壁、家屋、工場、その他の建物など、爆風に直立していたものはすべて破壊された。瓦礫が渦を巻いて空中に舞い上がった。路面電車は拾い上げられ、まるで重さも固さもないかのように放り投げられた。生きとし生けるものすべてが、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で死滅していた。梁、レンガ、桁が渦を巻いて家々を倒壊した。原子爆弾の爆発の中心である爆心地から、3マイル以内の家々がまるでボール紙で建てられたかのように平らになった。安全な場所まで逃げ延びた数少ない人たちは、被爆後の約20日から30日後にガンマ線の放射線障害によって死亡した。

 原子爆弾の爆発から約30分後に、広島一帯の空が雲ひとつない中に、町には細かい雨が降り始めて、約5分間降り続いた。この雨は、熱せられた空気が突然高いところまで上昇し、そこで凝縮して雨となって降った雨である。雨が降ると上空に漂っている放射性物質が雨と一緒に落ちてくるために放射能の検出値は上がった。その後、激しい風が吹き荒れ、火は恐ろしい速さで燃え広がった。夕方には火は消え始め、そして消えた。燃えるものは何も残っていなかった。広島は消滅していた。広島・長崎の原子爆弾は核分裂反応が空中で起き、なにもさえぎるものがない状態で、大量の放射性物質が地上に降り注いだ。 




2023年12月9日土曜日

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年10月21日に広島原爆病院で植皮術を受けた。

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。熱傷とケロイドの後遺症が、左顔面と両手に残った。被爆して16歳になった少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年5月12日に広島原爆病院に入院した。

 金時さんというニックネームの16歳の少女は、広島原子爆弾によって4歳のときに被爆して、顔や首、肘などに大火傷を負った。その後に火傷した皮膚からケロイドが出現した。16歳になるまでに広島原爆病院でケロイドを切除し、傷のない皮膚をはぎ取って、皮膚を植皮する手術を9回受けていた。1957年10月21日に植皮手術により、左側の顔面の頬の一面に、瘢痕したケロイドを切除した。その傷口に両方の大腿から剥ぎ取って植皮した皮膚が張られて、黒い糸で縫い合わされた。

 手術した夜は、いつも金時さんは痛がってあばれた。まだ麻酔のさめない間に、手術室から帰ってきた金時さんをを、入院患者の仲間が集まって、ベッドに帯紐でがんじがらめに縛りつけるのが習慣だった。手術後は絶対安静が必要だった。手術日に、金時さんが手術室へ行く前に、「今夜はあばれないから、しばらないでね」と、同室の入院患者に哀れな声で頼んでいた。しかし、その夜に金時さんは例によってベッド上で痛がってあばれた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。

 1957年7月に、原爆投下から12年を経て初めて広島に行った写真家の土門拳は、1957年11月まで広島に合計36日間にわたり通い詰めた。原爆病院の患者たちをはじめ、被爆者たちの悲惨な「魔の爪跡」を約7,800コマのフィルムに写真記録した。写真集『ヒロシマ』(研光社)は1958年刊行されて、国際的な反響を受けた。




2023年12月2日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。10月中旬に浦上駅の駅舎に急造されたバラックにてイモの配給が始まった。壕舎生活をした長崎市民が集合して、待機する列がができた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂して、爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。その後に浦上駅の駅舎に、小さなバラックを急造した。10月中旬に浦上駅のバラックにてイモの配給が始まった。被爆してから壕舎生活をしていた長崎市民が集合して、待機する列がができた。当時は着る物食べるものは満足になく、何でも配給切符制度であった。

 長崎本線の浦上駅は、長崎市岩川町のほぼ中央に位置していた。爆心地の南に約1kmの地点であった。国鉄の長崎本線の線路を隔てて向こう側に、三菱製鋼長崎製鉄所と接していた。浦上駅も喪失して、建物も人も突然焼滅して、一面が焼野原で燃え残った木の幹が所々に点在した。もろもろの残骸や瓦礫の層、くすぶり続けている建物の断片が散在した。浦上駅は、駅舎が全壊して、約70人の国鉄職員のうちで、約20人は即死した。長崎原子爆弾の被爆後に約45人が原爆病で死亡した。

 三菱製鋼長崎製鉄所は、写真の左から右に、長崎製鉄所の第4工場、第一工場機械工場、第1工場鍛造工場、本館、変電所、第2工場鍛造工場のいずれも崩壊した。長崎原爆の爆風のために、壁体の鉄骨が、基部の支柱との接点で屈曲して、著しく傾斜した。壁とトタン屋根が吹き飛び、鉄骨がむき出した。浦上駅裏の三菱製鋼所は、燃え盛り、音を立てて鉄骨が崩れ落ち、爆風で曲がり折り重なった。従業員の総数は約5,300人で、8月9日被爆当日に勤務者は約3,300人で、半数交代制により午前11時2分には約1,700人が勤務していたと推定された。約1,700人他にも、動員学徒、女子挺身隊、海軍工作隊員が加わっていた。その中で、約1,400人が長崎原子爆弾爆弾に被爆して死亡したと推定された。




2023年11月25日土曜日

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原子爆弾の投下して約3か月後に、原爆症の放射線疾患から回復中である。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原爆症の放射線疾患から回復中である。原子爆弾の投下して約3か月後に写真を撮影された。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

 歯肉炎、口内炎、咽頭炎を含む粘膜の潰瘍化は、より原爆症の重症事例に共通していた。臨床症状は、白血球減少症と類似した。通例で、出血性下痢を伴ったが、多くの症例では伝染性の炎症によるので、その評価は困難であった。歯肉炎が始まった頃に、粘膜に点状現れる場合があった。但し、皮膚出血はもっと後に出現した。広島で収集した原爆症の資料から、ほとんどの症例は爆心地から半径約1.5km以内で発症した。

 アメリカ軍の米国戦略爆撃調査団は、ルーズベルト大統領の指令に基づいて、1944年11月3日に結成された。トルーマン大統領は、1945年8月15日に、対日本戦における空襲の効果について調査を指令した。対日戦の米国戦略爆撃調査団は、文官約300人、士官が約350人、下士官約500人で構成された。原子爆弾が投下されて約1月間経過した1945年9月初旬から、東京を基点として、名古屋・大阪・広島・長崎に支部を設置した。調査団の収集した資料は常設の政府機関に移管された。1945年10月から12月に約10週間、広島と長崎の被爆都市で実地調査した。他の調査機関である、対日原爆調査合同会議、対日英調査団、対日海軍技術調査団と相互協力した。

 原爆が炸裂直後に死亡した者の死因に関する記録はなかった。放射線は直ちに死を引き起こすものではないく、被爆死は他の傷害因子が死因となる。広島県保健局は、約60%は火傷(閃光火傷あるいは火災による火傷)、約30%は落下して破片、約10%はその他の傷害と推定した。その他の推定では、約50%は火傷が原因であり、約50%はその他の物理的傷害とされた。

 爆心地に非常に近い被爆者が、閃光火傷も二次傷害も被らなかった被爆者が、2から3日以内に原爆症は発症して、出血性下痢を引き起こして、上部呼吸器と胃腸粘膜に急性炎症を認めて。幾人かは、原爆症を発症して2〜3日で死亡した。大半の被爆者は約1週間後に死亡した。日本側調査団は、短期間で死亡した被爆者に血液中の著しい変化を証明するのは困難であった。




2023年11月18日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、男子児童が顔と腕にの重度の火傷を被爆した。その直後に、比治山国民学校の救護所に搬送されて入所した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、男子児童が顔と腕にの重度の火傷を被爆した。その直後に、比治山国民学校の救護所に搬送されて入所した。比治山国民学校は、爆心地から南東に約2.8kmにあり、火災を免れた。原子爆弾の被爆直後から負傷した広島市民が避難し、広島県が翌8月7日に布告した救護所13カ所の一つとなった。

 比治山国民学校は8月8日から、迷子の子供たち、特に小さな子どもたち、オムツの取れていない子供たち、大やけどを負った子供たち、重傷を負った子供たちの避難所となった。8月20日までに約60人の子ども、後には一度に約155人もの子どもが保護された。被害者の子どもらは4、5人の教師と地元の女性クラブの会員によって救護されていた。

 夜になると、『お母さん、便所に行きたい』と子どもが泣きながら目を覚ました。暗い救護所内では、また別の子どもが目を覚まして泣き出した。子どもは原爆症で下痢をして、長く便所を待てずに、途中で身体を汚した。子どもは、目覚めることなくベッドを汚した。翌朝に、血まみれの排泄物で汚れた毛布や蚊帳を急いで手洗い、天日で乾かして、晩にまた使用した。大量の放射線を吸収した小さな子どもたちは、脱毛で髪を失い、下痢が続いて日に日にやせ細って、ついには原爆病死した。校庭の片隅で次々と火葬され、野放しの軍用犬が死体をあさり、次の焼却を待機した。

 原子爆投下の2日後の8月8日から、比治山国民学校は孤児(当時は「迷子」と呼称)のための「比治山迷子収容所」となった。一時は約200人の子どもたちが収容されたが、多くの子どもがそこで原爆病死した。原子爆弾投下で未曾有の混乱に陥り、保護者の生死が不明となった子どもたちの救援が始まる。9月2日までの受け入れは計91人(うち女児36人)、その内訳は0~5歳が40人、6~12歳が47人、13歳以上が4人であった。そのうち18人が親に、14人が親族などと計32人が引き取られたが、9人が原子爆弾の放射線急性障害による原爆死に至った。



2023年11月11日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病で、 広島市基町の母子療で死亡した。母親が原爆病で死亡して孤児となった子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、約7年も経過して母親が原爆病に由来する白血病のために、 広島市基町の母子療で死亡した。母親は原爆病で死亡して孤児となって残された子供の男子が、慰霊に線香を立てて追悼した。広島原子爆弾が炸裂して母親が被爆した当時は男子は約二歳で、広島原子爆弾のことは何も知らず記憶になかった。原子爆弾の被害は戦後になってもまだ続いていた。

 母子寮は、18歳未満の子どもを養育している母子家庭等の女性が、子どもと一緒に安心して生活し、自立できるように生活・住宅・養育・就職など総合的な支援を行う児童福祉施設である。入所の要件は、配偶者のいない女性または、これに準ずる事情にある女性で、生活上の色々な問題を抱え、児童の養育などで支援が必要な母子である。児童福祉法にて、配偶者の無い女子またはこれに準ずる事情にある女子およびその者の監護すべき児童を入所させてこれらの者を保護するとともに、これらの者の自立の促進のためにその生活を支援し併せて退所した者について相談その他の援助を行うこを目的とする施設である。1998年児童福祉法第38条改正によって母子寮から母子生活支援施設へと名称が変更された。

 母子寮は、1929年の世界大恐慌後の社会不安の中、1932年に施行された救護法で法律に位置づけられた(救護法第十二条 幼者ト併セ其ノ母ノ救護ヲ為スコトヲ得)。1938年に厚生省が設置され、母子保護法により規定された。第二次世界大戦後、混乱する社会の中で、着の身着のままで荒廃の中をさまよう母子の保護が、社会的に大きな課題となった。1949年の国会で、「授産場、母子寮、保育所を増設すること」決議がなされ、1947年に212か所の母子寮は、母子生活支援施設は2023年に215か所、定員4,441世帯で現員は3,135世帯で減少傾向となった。終戦当時は戦争で住宅を失ったり、夫の戦災死による死別母子家庭が圧倒的に多かった。「屋根、寝る場所と住む場所」と、戦争で夫を失い、家を失い、家族を失った、切実な課題の母子に、母子寮が戦後の母子家庭対策と支援した。戦後の時代に入ると、「死別母子家庭」から、離婚などを理由とする「生別母子家庭」が増加して、住居課題から、複雑で多様な生活課題の利用が増加した。




2023年11月4日土曜日

広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、原爆病で死亡した被爆者を病理解剖をする臨時剖検室が広島逓信病院に設置された。広島逓信病院の臨時剖検室は、血便などの使用上から赤痢を疑われた被爆者を隔離するために急増して設置された病棟の一部であった。赤痢の疑いから解放された後に、臨時剖検室となった。

 広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した。広島医専の玉川教授は、被爆者の病理解剖を、8月29日から10月13日までの剖検記録を残した。その助手として、内科の宮庄州男医師が病理解剖の記録した。

 8月6日に原子爆弾が炸裂して、広島が壊滅した直後から、病理解剖された原爆犠牲者の剖検記録が残存した。広島医専の玉川教授が、8月29日から10月13日にかけて病理解剖した19事例の全てが揃って残存した。病理解剖は、広島逓信病院(広島市中区)付近の板小屋で行われた。原子爆弾の放射線の早期の影響を調べた貴重な病理記録となった。玉川教授を初代教授とした現広島大大学院分子病理学研究室が保管している。

 玉川(1897年~1970年)は、1945年春に、広島医専の認可に伴って、岡山医科大助教授から広島医専の教授に転任した。8月6日は広島医専の疎開先であった現安芸高田市にいた。8月8日に広島市内へ入った。広島県庁に、病理解剖の許可を求めたが断られた。

 「脱毛、皮下溢血、未知の病変の続発する報に接したので、今は一刻の猶予もならぬ」と8月27日に再び広島市内に向かった。岡山医科大学の後輩で広島逓信病院の蜂谷道彦院長に協力を要請した。蜂谷道彦院長は「原子症」への注意を院内に張り出して、病理解剖の必要性を感じた。玉川教授は、宇品陸軍船舶司令部の暁部隊が、広島逓信病院の裏庭に建てた木造バラックで病理解剖した。玉川教授は、板壁を外して解剖台などを作った。10月13日までに19症 例を解剖した。復員した病院医師や来援の岡山医科大生らが助手を務め、口述を書き留めた。

 「広島市に於ける原子爆弾症の剖検記録19例」の論文は、GHQ占領が明けた1953年に刊行された日本学術会議の「原爆災害調査報告集」で公表された。広島大医学部の玉川教授は、原爆ケロイド患者の表皮からがんの転化を発見した。GHQに接収された病理・組織標本などは1973年にアメリカ陸軍病理学研究所から日本へ返還されて、旧広島大学原医研などが保管した。




2023年10月29日日曜日

1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである。原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。

 長崎原子爆弾の被爆者の背中をケロイドが覆った。ケロイドは、瘢痕組織の上に成長する緻密な線維性の増殖である。1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである(日時・場所等不詳)。

 原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。爆心地から2km以内で熱線を浴びた人の約50~60%にケロイドが発生した。ケロイドは放射線と関係がある。ケロイドは被害者の心と体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドがある人は精神的にさらに苦しみ、背中や肩にケロイドがある人は肌を見せることを躊躇した。

 ケロイドは、原爆被爆者の火傷した皮膚が治癒する過程で形成された、不規則で異常に突出した瘢痕組織である。瘢痕が蟹の甲羅や足のように見えることからこの名がついた。爆心地から約2km以内の被爆者に多く見られ、ケロイドは被爆4ヵ月後に形成され、その後6~14ヵ月後に最も目立つようになった。ほとんどの瘢痕は約2年後に縮小して治癒した。

 太平洋戦争の末期となった1945年8月9日午前11時2分に、プルトニウムを核とする約21キロトンの爆縮型の原子爆弾であるファットマンが、長崎上空の約500mで炸裂した。推定7万人の長崎市民が死亡して、約6万人が負傷した。人口密度の高い九州西部の工業都市である長崎市の上空で炸裂した。長崎市は、取り囲む丘陵地帯により、原子爆弾の壊滅的な影響が広がるのを食い止めた。逆に、原子爆弾の破壊力を集中させ、爆心地に最も近い地域で原爆の威力をより強烈にした。長崎原子爆弾は爆心地から約914m以内にあった病院と医学部を消滅させた。爆心地から半径1.5km以内にいた人々は一瞬にして姿を消した。 



2023年10月22日日曜日

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、同年12月までに約9から約12万人が死亡したとされる。その約半数は、原子爆弾の投下して炸裂した直後に亡くなった被爆者である。1945年にはアメリカ軍から、すでに東京をはじめ各都市が徹底的な空襲を受けた。

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者であったホーマー・ビガード(Homer Bigart)は、アメリカ軍が原子爆弾を投下して炸裂して8月6日後に、9月3日と遅延して、広島市内に入ることが許可された。被爆地を撮影したライフ誌の写真家であるバナード・ホフマン(Bernard Hoffman)と同行した。9月3日に、広島市内を歩いた。約4週間前の最初の原子爆弾の爆発による被爆者たちは、治療が困難な火傷や感染症で、9月3日頃に毎日約100人の割合で死亡した。この史上最悪の核兵器の原子爆弾による犠牲者は、死者約53,000人、行方不明者約30,000人、重傷者約13,960人、負傷者43,000人であった。ホーマー・ビガードは、1945年8月6日に広島市上空で原爆が爆発してから1ヵ月後の広島市内の破壊を目の当たりにしても、敵である日本軍を全滅させるための戦争の論理的な行為であると考えた。ビガードは、1945年の太平洋戦争、1951年の朝鮮戦争の取材でピューリッツァー賞を受賞した。

 広島市内は平坦な、ぞっとするような荒涼とした風景が広がっているだけだった。荒涼とした風景を際立たせているのは、むき出しになった黒ずんだ木の幹と、時折見える鉄筋コンクリートの建物の殻だった。瓦礫はいたるところにあったが、その大きさは通常よりはるかに小さかった。原子爆弾はすべてを取り壊した。鉄や鋼鉄でできた建物は、いくつかの砲弾が残っているだけだった。広島の大部分は木造は燃え尽きた。日本は全面戦争だった。戦争に勝たなければならず、敵を実質的に絶滅させなければならないと感じていた。