2021年9月25日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着ていた女性が被爆して、衣服とストラップや縫い目が、火傷に影響を及ぼした。

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着た女性が被爆した。タイトな衣服とストラップや縫い目が、火傷を保護する効果があった。火傷は衣服が最もきつかった部位である右肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。下着の紐と着物の縫い目が右肩を保護した。暗色の着物により熱線が影響を受けた。被爆者が炸裂時に着用していた外衣である。着物の焦げた部分が落下している。柄の薄いロゼンジ部分は比較的焦げにくい火傷が軽傷であった。火傷は衣服が最も密着していた部位で発症した。袖が緩んでいた上腕部の中央部分に焦げが発生しても、その部位には火傷はなかった。

  爆心地から約1km以内を除き、衣服は火傷を防ぐのに有効である。日本の都市では、服を着ていない人が服を着ている人の6から7倍もの人が火傷をしている。体の部位の割合は服を着ていない場合の数倍である。衣服による保護効果が高いことがわかる。頭や手足の火傷の発生率は、覆われている可能性の高い体幹の火傷の発生率よりもはるかに高かった。

 原子爆弾の爆心地から約800m以内では、衣服による保護は不可能であった。それ以上の、距離に応じて防護効果が高まった。しかし、夏期で日中の気温が高かったために、被爆者の衣服は一般に薄手のものが多く、野外ではほとんど衣服を身につけていない人々も多かった。これらの要因が、原子爆弾による火傷の発生率を高めた。

 衣服の上から受けた火傷は、素肌の場合よりも程度が低い。多くの場合、衣服を身に着けない素肌は炭化するほどの重度の火傷を負っていても、同じ人の衣服を着た肌は、わずかな色素脱失や単なる色素沈着を示すだけである。これは、同じ距離で火傷した人でも同じように変化する。

  熱の吸収の法則に従えば、白い服を着ることが一番の防御となる。白い服を着ていた広島原子爆弾の被爆者約169人のうち半分以上が白い服の下で火傷した。色付きの服を着ていた被爆者約785人では75%近くが火傷を被った。この結果は、素材の色のついた衣服よりも、白い衣服の方がはるかに防御力が高い証拠を裏付けた。黒い服はよく焦げて、時には火事にもなったが、同じ距離で着ていた白い服は燃えなかった。模様のある衣服を着ていた場合に、衣服の下の火傷には、色合いの違いに応じた模様が見られることが多い。白地に暗色の斑点やストライプがあると、焼けたり焦げたりするが、。白い布はそのままで、その下の皮膚は火傷しなかった。

  厚手の服は薄手の服よりも防御力が高く、皮膚が焼けた部分には縫い目や折り目に焼けていない線が多い。着物の重い襟や、靴やサンダルの紐も同様の効果がある。ゆったりとした衣服の方が窮屈な衣服よりも保護効果が高く、窮屈な衣服の下はそのままでも火傷する。窮屈な衣服による影響が示された。


暗色の着物により熱線が影響を受けて火傷が重傷化した。



火傷は衣服が最もきつい肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。

2021年9月18日土曜日

新興善救護所に入所した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫び、口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。

 新興善救護所に入所した長崎原子爆弾に被爆した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫んだ。顔面から口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。傷口もわずかに湿らす程度であった。周囲の被爆者は次々に死亡して救護所外で死後処理されて、被爆者は常に死の恐怖を伴った。

 新興善救護所は爆心地から、南南東に約3kmの地点であった。長崎原爆戦災誌によると、被爆翌日の8月10日に海軍の派遣救護隊が到着した。医薬品も衛生用品も十分でないまま、衛生兵や日赤看護師が治療に当たった。近隣から数百人規模の救護隊が駆けつけた。3階建ての救護所には、連日に被爆者で溢れ、瓦礫が散乱して足の踏み場もなく、不眠不休の救護をした。8月末までの約2週間に約8,000人が手当を受けた。被爆者は原爆症により泣きわめいた。医薬品が不足する中で、火傷もわずかな手当でそのままとなる。外傷もぶらぶらの状態となり、夏場で蛆虫が集った。

 長崎原子爆弾で壊滅した長崎市は、崩壊した長崎医科大学の代賛として市内最大の救護所となった。1936年に新興善国民学校が建てられた鉄筋コンクリートの建物は、原爆の爆風で窓ガラスが粉々になるも、倒壊を免れて救護所になった。それ以後6年間は長崎医科大学の臨時の特設救護病院となった。長崎市立新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。





2021年9月11日土曜日

アメリカ週刊誌Lifeは、防空壕に入り長崎原子爆弾から無傷で不似合いな笑顔を浮かべ幸運の少女を美化してアメリカ国内に公表した。

アメリカ週刊誌「Life」(1952年9月29日号、26頁)は、「警報後に防空壕に入り、すべて異常なくなるまで出所しないで、無傷で不似合いな笑顔を浮かべながら幸運の少女が防空壕から這い出てきた。」と長崎原子爆弾に被爆しなかった幸運な少女と美化した。日本軍報道部員であったは山端庸介は、被爆を免れて瓦礫にいた少女に向かって、塹壕に入ってカメラに向かって微笑むように依頼して撮影した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日の早朝に、爆心地から南南東2.5kmの中町天主堂付近で少女を撮影した。原子爆弾の二次火災による焼失した地域であった。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、その後に自然発火して大火災に発展したと推定された。
 山端庸介ら報道部員は、8月10日午前3時ごろから、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で、8月12日までに爆心地周辺など約100コマを越える写真を撮影した。8月12日にフィルムを現像するも、写真の撮影を戦時中に守秘した。
 1945年7月に山端庸介は、福岡県福岡市の陸軍西部軍管区司令部に報道部員として徴用された。新型爆弾(原子爆弾)が広島に投下された8月6日に赴任した。8月9日に長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受けた。軍艦司令部から、対敵宣伝に役立つ悲惨な状況を記録する指令されて、作家の東潤、画家の山田栄二、写真家の山端庸介ら5人の報道部員が長崎県長崎市に探索に向った。8月10日午前3時頃に、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着した。その地点で列車は不通になって、焦土と化した長崎市内の被災地を徒歩にて縦断して、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いていた。
 傷つき、ほこりをかぶった写真のコレクションが、遅延信管爆弾のような衝撃を日本に与えた。日本は初めて、広島と長崎に原爆が投下された人々に何が起こったのかを示す視覚的な証拠を目撃して、衝撃を受けた。アメリカで初めて出版されたこの写真集は、自らが原爆に巻き込まれるという非論理的な恐怖の中で、あるいは原爆に巻き込まれた被爆者の世話をする恐ろしい仕事の中で生きている全ての人々にとって、今日のニュース写真のような即時性を持っている。
 世界中の人々と同様に、日本人も原子爆弾による破壊の物理的事実、死亡者数の統計、きのこ雲の下で起こった物語しか知らなかった。しかし、例外を除いて、5人の日本人写真家らが、原爆投下後の恐怖の数時間に撮影した写真は、約7年間の占領期間中、厳格なアメリカ軍の検閲によって極秘にされた。その間に多くの写真ネガが破損・紛失し、戦時中の粗悪な薬品で処理されたネガは使用不可なほど劣化した。しかし、1952年の初め、アメリカ軍の日本占領が正式に終了する前に、日本の新進気鋭に富んだ出版社が、まだ残存している写真の収集を始めた。1951年9月8日の講和条約が1952年4月28日発効されて、アメリカ軍の検閲が廃止された。出版社は急いで写真集3冊及び26ページの原爆記録写真が「アサヒグラフ」週刊誌に掲載された。一夜にして完売し、出版社から新版の注文が入った。
 対日講和条約が1952年4月28日に発効すると,原爆の惨禍を扱った出版物が続々と刊行される。日本では、悲惨なの原爆写真が新たな反米主義の波を引き起こすと懸念された。しかし、原爆写真の教訓は、広島と長崎を引き起こした戦争を始めた人々に対する嫌悪よりも、はるかに深い衝撃であった。長い間封印された原爆写真を見た人々は、平和主義、中立、いかなる代償を払っても平和を求める心から新たな叫びを引き起こした。ほとんど一声に近い形で、朝鮮戦争とロシアとの侵略の脅威により忘れられていた。長崎の原爆死没者慰霊碑では、10代の被爆者が「あの日、焼け焦げた死体の中を這いずり回りながら、喉の渇きから水を求めて叫んだように、私は今、『平和、平和』と叫びたいのです」と、世界共通の平和を訴えた。
 原爆被害の世界初公開と誇った「アサヒグラフ8月6日号」から、岩波写真文庫『廣島―戦争と都市』『原爆第1号ヒロシマの記録写真』。月刊誌『世界』『婦人公論』8月号は,東大病院・小石川分院で診察を受けた広島からの独身女性たちを取り上げた。さらに『改造』11月増刊号は「この原爆禍」と題して丸ごとの特集を組んだ。広島ではすでに6月,映画「原爆の子」(新藤兼人監督)。1952年はアメリカ軍の検閲の解放により原爆報道が明けた年となった。(国際平和拠点ひろしま)

  


2021年8月28日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した約2ケ月後の10月9日に、子供らの被爆者が広島日赤病院の外来治療室にて加療された。

 広島赤十字病院の外来に、多数の子供らも広島原子爆弾の被爆者が通院していた。広島原子爆弾が1945年8月6日投下されて炸裂した約2ケ月後の1945年10月9日に、外来に子供ら被爆者が、広島日赤病院の外来治療室にて加療された。看護婦らは、原爆症の子供らの被爆者の傷口の処置も行っていた。被爆当日には46人の看護婦が死亡し、5人の看護婦が重傷を負った。看護寮では25人の看護学生も死亡した。

 1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に急性骨髄性白血病を発症する骨髄異形成症候群(MDS)に、一般人口の4倍の割合の罹患が後に示唆された。幼少期の被爆者は、数10年にわたり複数の種類の悪性新生物に罹患し、個別に発症する傾向が見られる。被爆時に全身が放射線を受けて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受け、その後に異常な細胞が発生して悪性新生物を発症すると示唆された。放射線被曝が被爆者の遺伝子に損傷を与えた場合に、放射線影響の遺伝的な伝達も長期的な問題となる。

 太平洋戦争中は、広島陸軍病院赤十字病院であった日本赤十字社広島病院は、爆心地から南約1.6kmと至近距離であったが、広島市中区千田町1丁目に残存した。「敷地内にあった木造建築は全部倒壊し、間もなく火を発して焼失したが、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであったので焼失は免れた。しかし、鉄の窓枠は破壊しガラスはこっぱみじんに飛散し、内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れ、足を踏み入れることができないほどまったく壊れてしまった。医師5名、薬剤員3名、その他43名の計51名が死亡し、全職員の85%が重軽傷をうけた。病院としての機能を全く喪失してしまった。」しかし、8月6日午後から、病院職員の尽力で被爆直後から臨時救護所が設けられた。翌日の8月7日には山口県、岡山県などの赤十字病院から救護班が到着し始めて、医療活動に入った。

 広島市内は瓦礫の中で、広島日赤病院は被爆した直後から、被爆者の救護活動を再開した。「1.収容患者の治療をすること。2.外来に押しかけたり運び込まれたりする患者に何とか応急処置をすること。3.破壊された病室を清掃して少しでも患者の収容力を増すこと。4.衛生材料の確保補充。5.食糧の確保。6.次々に死んでいく死体の処置。7.便所をつくること。8.入浴場をつくること。9.飛散した病院の書類を収拾して紛失盗難を防ぐこと。10.職員及びその家族の死亡や負傷状況を知り、また職員の日々の活動状況を正確に把握すること。」が緊急の課題であった。[「」内の引用は、後に病院長になった重藤文夫氏の『回想』(仁科記念財団編纂『原子爆弾=広島・長崎の写真と記録)を参照]悲惨な損壊を受けた広島赤十字病院で、1945年10月頃には血液検査ができるようになり、血液検査を求める広島市民の被爆者の人数がさらに増大した。被爆者の放射能障害は、血液検査が診断となる白血球の著しい減少が特徴である。



2021年8月21日土曜日

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の多数の被爆者らが手当を受けた。

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の被爆者らが手当を受けた。爆心地から南西に約1.6Km離れた千田町1丁目の広島赤十字病院は1945年8月6日の原爆投下で大きな被害を受けた。広島赤十字病院は鉄筋コンクリートの一号館,二号館は大破して、木造の南病棟・隔離病棟・寄宿舎などはその後の火災によって焼失した。必死の救護活動が展開されるも、軍関係の入院患者のうち約5人が死亡,約105人が負傷,院長の竹内釼をはじめ職員・生徒のうち,約51人が死亡,約250人が負傷した。広島原子爆弾の救護所は,広島県が把握したものが約53か所,広島県医師会広島支部会員が救護活動が判明した約102か所に及んで、約31万5,910人の被爆者が手当を受けた。

 原子爆弾の放射能が放射するガンマ線は、非常に透過性が高く、広島赤十字病院のコンクリート室の鉛容器内に保管されたX線の写真乾板も完全に透過する放射能の光線にさらされた。東京帝国大学を卒業した竹内釼は、1939年に広島赤十字病院の初代院長に赴任した。竹内釼は被爆して重症でも被爆者を加療した。

 広島原子爆弾によるX線フィルムの分析も、1946年8月号の原爆記念版の月間中国新聞のコラムに投稿していた。広島赤十字病院の廊下から庭の隅まで、無数の患者が病院の敷地を埋め尽くした。まるで満員電車のように、人々の列がぶら下がった。ガンマ線(放射線の一種)は透磁率が非常に高く、コンクリート室の鉛容器に収められたX線写真乾板も完全に光にさらされた。つまり、コンクリートの空気中でも放射線を遮断できず透過した。壁に十分な厚さがない限り、シェルターを襲撃した。原爆病の場合、主な死因となる特異な症状は、造血器官の障害、血液の変化、粘膜上皮の変化による吐血、血便、内外の出血である。日本国民の中には、敗北の現実に直面することに耐えられない人がたくさんいると確信している。しかし、連合国による日本の占領は事実であり、夢ではない。人々はこの現実に目を覚まし、できるだけ早くそのような洞察を得る必要がある。広島でも、適切な手段で原爆遺跡の一部を後世に引き継ぐことができれば、確かにさまざまな平和に有益である。最後に、「夏の草 廃墟の中に入る 立ち去るのが難しい」と竹内釼は俳句を残した。

 被爆者は、自分の子供が 『第二世代被爆者』として不当な差別の対象となることを恐れて、黙って子供たちを守ろうとして、被爆証言の公表を躊躇した。2021年4月17日から全国の劇場で上映された(https://www.hiroshimaenochikai.com/)のドキュメンタリー映画「ヒロシマへの誓い-サーロー節子とともにー」に、竹内の孫娘の竹内道が製作者として参画した。






2021年8月14日土曜日

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者の調査のため、広島第一陸軍病院宇品分院にて、収容されて仰向けの被爆者の診察検査をした。

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者を調査するために、広島第一陸軍病院の宇品分院を訪問した。収容された仰向けの被爆者の視覚検査をした。広島原子爆弾の爆心地から南東約4.1kmの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院として、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となった。約6,000人以上の被爆者が収容された。

 原子爆弾の開発を行なった機関の調査団であるマンハッタン管区調査団とアメリカ太平洋陸軍軍医団調査班が合同して原爆及び医学的報告を行なった。ファーレル准将を団長とする約15人からなる調査団を広島に送ることを決定した。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府に対しこの調査に協力するように指令を出した。

 これを受けて、広島で調査活動中であった陸軍本橋および東京帝国都築正男教授は東京に呼戻もどされ、調査団に同行・協力した。調査団は9月7日空路で岩国に到着した。9月8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行なった。

9月8日に、ファーレル准将一行の調査団は、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かった。広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始した。一行には、東大都築教授、軍医学校の本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告した。調査団にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍は約15トンに及およぶ医薬品を、博士の要望に応おうじて提供した。

 1945年9月に、アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院などに収容された被爆者から約1年間の被爆調査を行った。陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、東大の都築正男(教授)、アシュレー・オーターソン(米陸軍)、シールズ・ウォーレン(米海軍)による日米合同調査団を編成して、約1年間の被爆調査が行った。収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、全調査資料がアメリカに送られて、アメリカ陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。

 広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から敗戦の8月15日までに撮影された原爆写真は、広島で被爆した9人の撮影者と大阪から入った朝日、毎日、同盟(共同通信)の記者3人の計12人による259枚と、陸軍船舶司令部写真班が撮影した52枚の311枚の原爆写真の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して9月下旬に入った東京の撮影者などを含めて1945年末までに、日本側は計37人の2702枚を収めた。写真の半数は、サンフランシスコ講和会議で日本が占領下から主権を回復すると、東京の朝日出版社から直ちに「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(1952年8月14日発刊)に使用された。ただし、場所や撮影者の記述はない。そのうち1枚が、アメリカ写真雑誌「ライフ」(1952年9月29日号)に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載された。




2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

 広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。






 


2021年7月31日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。大村海軍病院に入院して看護婦から救護を受けていた。女性の職業は行員をしていた。原爆症により、彼女の頭頂部にかけて著明な脱毛が認められた。1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂によって、長崎市内は一瞬にして地獄化して、約73,000人が被爆死した。さらに約75,000人の被爆者には、その後に原爆症を発症して、深刻な後遺症の障害を伴った。

 1945年9月1日時点で大村海軍病院に収容された被爆者の概要は、収容患者総数は約758人である。そのうち約97%は直接に原子爆弾による受傷者であり、約3%が火災その他による関節の受傷者であった。屋内に居た者は約81%、屋外に居た者は約19%であった。着衣の者は約63%であり、半から全裸体の者は約37%であった。死亡者は総数は約155人である。

 被爆者の一般症状は、入院被爆者の大部分は、原子爆弾による熱傷ならびに爆風による爆傷である。原子爆弾による熱傷は普通の熱傷まては火傷と異なり、体表面の約3分1以上の広範囲の熱傷にも関わらず、予後良好なる傾向は注目された。

 特異被爆者の症状は、熱傷または爆傷は極めて軽微あるいは全く無い被爆者でも、被爆後の数日あるいは十数日を経過して、突然に光熱、著名なる脱毛、口腔粘膜の腐爛状態、口唇の部分的壊疽、嘔吐、血便、皮膚及び粘膜のうっ欠の病状を発現した。それから約2から約1週間後に病死するに至った。

 その血液所見は末期には、白血球数が約200程度、赤血球数は約100万から約200万、血色素は約30%、色素係数約1.0過ぎ、血小板はほとんど消失していた。血液の病理標本では、赤血球に非常に大小の不同にて、白血球はわずかに数個のみ、リンパ球は少し多かった。血液の凝固時間は、開始が約5分から完結するのに約20分も必要として、出血時間は2時間以上となった。

 死亡後の死体の病理剖検(8事例)で、共通なる所見は、内蔵主として消化器の著明なるうっ血の散在して、肝臓破裂が3事例、脾臓破裂は1事例、直腸粘膜に舌苔様あるいは水疱様物が2事例、軟脳膜に苔状物が2事例を認めた(大村海軍病院に収容せる原子爆弾遭難患者の調査概要、1945年9月1日時点)。





2021年7月24日土曜日

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で顔面の広範囲の火傷と傷痕から発生したケロイドの加療を受けた。

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で加療を受けた。彼女は原子爆弾による熱線により、顔面を広範囲に火傷した。原子爆弾による火傷の痕から顔面に多大のケロイドが発生した。顔面のケロイドは、まばたき、話し方、嚥下などを困難にした。火傷の傷跡は、被爆者の皮膚が、原子爆弾の炸裂の最初の閃光の熱線に直接にさらされた部位に形成された。

 ケロイドは、火傷の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけたような、ギリシャ語でケロイドはカニを意味して、不規則なケロイドの隆起を生じた。被爆後に約4ケ月頃までに発症して、約6ケ月から約1年2ケ月後にケロイドが最も顕著に隆起した。約2年後には部分的に改善され、隆起も縮小していた。原子爆弾の爆心地から約2km前後で熱線にさらされた被爆者には約50から60%に発症した。原子爆弾の熱線で大火傷を受傷して、特に女性の顔面にケロイドが残存すると心的外傷後ストレイ障害(PTSD)などの社会的後遺症に苦悩した。

 深い第2度または第3度の重症と思われる閃光熱傷の治癒後に、重度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕の形成が比較的高い頻度で発生した。ケロイドの病因は、皮膚病変の治癒にて発症する生物学的および生化学的過程における修復過程に起因する。被爆者によっては、火傷の治癒時に過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向がある。瘢痕ケロイドは、治癒過程で生成される線維性結合組織に影響される。瘢痕ケロイドや肥厚性瘢痕の原因となる過剰なコラーゲン産生は、病変が真皮の網状層の深部にまで及んでいた。深部まで及んだ火傷や、感染や追加の外傷による壊死によりケロイドが合併した。




2021年7月17日土曜日

広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。

 原子爆弾による放射線の遅発した影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷、放射線の影響という3つの要因が複雑に絡み合った。広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。この現象は医学的には説明がつかない。
(I) 急性疾患の放射線の影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷と相乗的に作用した。一般に被曝者の病状を悪化させた。
 その発症時期によって急性疾患と長期疾患に分類される。急性疾患とは、炸裂後から1945年12月末までの間に発症した症状であった。多く被爆者は、炸裂後に約5ヵ月で回復した。
 それらは悪心・嘔吐・下痢の消化器症状、頭痛・譫妄・不眠などの神経症状、脱毛・脱力感・倦怠感の適応症状、吐血・血便・血尿・鼻血・歯肉出血・性器出血・皮下出血の出血症状、発熱・咽頭痛・口内炎・皮膚炎などの炎症症状、白血球減少・赤血球減少などの血液症状、吸虫症・月経異常などの生殖症状が出る。急性疾患期間中の総死亡者約14万人のうち、約20%が爆風による負傷、約60%が熱線や火災による火傷、残り20%が放射線障害であった。
(2)長期疾病の原子爆弾に被爆して、急性期の原爆症から生存した多くの被爆者は、原子爆弾から1945年12月末には、表面的には健康であるように見えた。しかし、原子爆弾による医学的影響は終結してなかった。
  原子爆弾による火傷は、一度は治るが、1~数ヶ月もすればケロイドを形成し、傷跡が隆起した。ケロイドの発生率は、1946年から1947年にピークを迎えた。さらに外傷性白内障などの眼科的疾患や、白血病などの血液疾患は、1947年頃から頻回に認められるようになった。特に白血病は1950年から1960年に頂点に達した。甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺腫瘍などの悪性腫瘍は、白血病の発生ピーク後の1960年頃から増加している。その他に、易疲労性、めまい、不眠などの神経障害、老化、胎内被爆による病気などが発生した。放射線の遺伝的影響については、現時点では明確な証拠は得られていないが、今後の調査・研究が必要な問題である。



 


2021年7月10日土曜日

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。その手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。厳しい火傷の疼痛に耐えながら、被爆者の娘さんは、有り難いマーキュロを火傷の傷に塗布してもらってた。薬等ほとんどなく赤チンあるのみで、目を覆うような被爆者達に塗布された。その後には醜いケロイドが発生すれば、将来には悩みを抱えることになる。治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりのみであった。真夏の時期であり、火傷には膿を持ち、ウジなどがわいた。

  薬も不足すると、マーキュロクロム液を混ぜて火傷に塗布した。マーキュロは、水溶液が赤いので「赤チン」と呼称された。マーキュロは、1~2%に希釈して水溶液を使用される。細菌の発育抑制して、局所の刺激性が少なく、創傷や皮膚粘膜の消毒に用いらた。有機水銀製剤であるために、静菌であり,浸透性も弱く殺菌作用は弱かった。マーキュロは1918年にW.ヤングらによって開発され、日本には1936年頃から利用された。

  有機水銀による熊本県水俣湾でのチッソ社が起こした水俣病が1956年に発見された。新潟県阿賀野川流域で昭和電工による第二水俣病が1965年に発見された。有機水銀による毒性と高い蓄積性で多数の被害者を出して。日本国内では1973年に製造禁止、2019年から全く使用できない。



2021年7月3日土曜日

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。広島市内は医療資源の多くが破壊されて、治療には限界があった。救護所が、広島赤十字病院にも設置された。医療関係者がヨウ素軟膏、メルクロクローム、酸化亜鉛などの軟膏を火傷に塗り、包帯を巻いた。すぐに医療品は枯渇して、公式の被害報告によれば、食用油と包帯程度の治療を受けた。広島赤十字病院で1945年10月に22歳の被爆者の陸田豊子(右端: くがた とよこ)が治療を受けた。陸田豊子は爆心地南約1.7kmで被爆して、住まい隣の農家から借りた大八車の荷車に乗って広島赤十字病院に通って治療を受けていた。

  医薬品がなくなり、救護所を離れた被爆者や身寄りのない被爆者は、食用油、じゃがいものスライス、きゅうりのすりおろし、トマトの絞り汁などを熱傷に塗った。暑い夏には、傷口にハエが卵を産み付けるので、箸でウジ虫を取り除いて治療することも多かった。全身の30%以上に火傷を負った者は、その傷が原因で死亡した。原子爆弾の放射線を浴びると、傷の治りが著しく遅くなり、中には何年もかけて治すものもある。ほとんどの場合、治療後にかさぶたができて剥がれ落ち、ケロイドと呼ばれる赤いゴムのような皮膚の塊が残ることが多い。顔に火傷を負った被爆者は、結婚相手を見つけるのが困難となった。火傷の被爆者は、周囲からの偏見に耐えていた。火傷が臭いと言ったり、ケロイドが伝染する、赤鬼と呼ばれ、焼けた肌を見て気分が悪くなったと偏見を持ち続けた人も少なくなかった。火傷を負った被爆者の中には、日本の暑夏でも長袖のシャツやハイネックを着て、火傷を隠そうとした。精神的な傷を負わずに済んだ者はほとんどいない。爆心地に接近した不運な被爆者たちは、もちろん黒焦げの死体となった。





2021年6月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

ケロイドの形成は、火傷した皮膚に発生した。長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

原子爆弾の後遺症と遺伝的影響には次のような原爆症があった。

   1) ケロイド:  広島と長崎の中心部、爆心地付近で著明な一次熱傷または火炎熱を受けた被災者は、凄まじい爆風と放射線によって同時に負傷し、そのほとんどが即死または同日中に死亡した。少なくともステージIの終わりに近い状態であった。これらの二次熱傷は、火炎熱の場合と性質が似ており、真皮深部や皮下組織に大きな損傷を与えるグレード3やグレード4の熱傷に似ていた。これらの病変は閃光火傷を併発していることが多く、治癒までに時間がかかった。太平洋戦争の終戦直前・戦後の劣悪な生活環境も、この長い治癒期間の原因となった。火傷の化膿、傷の修復の遅れ、皮下組織の厚い傷跡の形成につながった。瘢痕組織が収縮し、変形や機能障害が生じた。これらの後遺症は、顔、首、手指に顕著であった。

 爆心地から約2,000~約3,000メートル以内の地区で、頻繁に発生した閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、当初は比較的短時間で治癒し、単純で薄い傷跡が形成された。両グループの差違である。骨の成熟については、1973年に調査されて、広島・長崎の胎内被爆児556名と対照群を対象に行われた。これまでの健常児の報告と比較して、手の骨端閉塞が男児では約6~約7ヵ月、女児では約8~約9ヵ月遅く進行することが判明した。

   2) 胎内被爆者の成人期: 1973年に原爆傷害調査委員会は、胎内被爆の晩期障害について報告した。胎内で高線量の放射線を受けた人に見られた原爆症は次の通りである。1)成長・発育(身長、頭囲)の遅延および小頭症の発生率の増加、(2)特に乳児の死亡率の増加、(3)抗体産生の一時的な低下、(4)末梢リンパ球における染色体異常の頻度の増加。しかし、白血病や癌の発生率の増加や、被曝した女性から生まれた子供の生殖能力の変化や性比の変化は認められなかった。

    3) 小頭症 小頭症の頻度は、原爆傷害調査委員会において、広島の胎内被爆者169人のうち、33例の小頭症を発見した。この33例の内訳は、精神遅滞が15例、正常な精神発達が18例、頭囲が標準偏差より3以上小さいのが13例であった。広島で胎内被爆した183人の子供のうち、33例の小頭症を発見した。33例のうち14例は顕著な程度の小頭症であった。長崎の胎内被爆児については、高線量被爆者(1.5km以内、50ラド以上)の平均頭囲が低いことを指摘している。長崎の爆心地から2キロ以内で胎内被爆した102人のうち7例、爆心地から2から3キロ離れた場所で被爆した173人のうち5例の小頭症を報告している。

 1963年に広島で行われた胎内被爆児の調査では、爆心地から3キロ以内で胎内被爆した545人のうち、45例(8.3%)の小頭症を発見し、そのうち12例(2.2%)は著明な小頭症であった。非被爆児473人の小頭症13例(2.7%)と比較しても、胎内被爆者の小頭症の発生率は極めて高い。きのこ会は、小頭症の子どもを持つ親たちの家族会であり、1965年に結成された。その後に、広島の作家やジャーナリストの集団である「広島学習会」の支援を受けた。





















2021年6月22日 Japan No Atomic Bomb (JNAB) 
日本原爆の会 視聴回数 330,000回

2021年6月12日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、日本軍の軍隊が窓枠が吹き飛んだ建物の上層階を占領した。生存した被爆者は下の階を再使用して避難させた。

広島原子爆弾の炸裂により建物は、ほとんどの窓枠も吹き飛ばされていた。直ちに軍隊がまず建物の上層階を占領して使用した。その後に生き残った広島市内の被爆者を、下の階に避難させて救護するために、下の階を救護所として直ちに再び使用された(Life, 1952年7月29日, 第 33 巻, pp.19-25, 第 13 号, Time出版社)。海外で初めてライフ雑誌にて、アメリカ軍に検閲されていない広島と長崎の14枚の原爆写真が刊行された。原子爆弾を投下したアメリカから海外に向けて、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える写真家からの視点を無修正の写真で公表した(uncensored photos show atomic bombing through victims' eyes)。


  広島原子爆弾を撮影した写真家たちは、写真に収めることができないほど多くの被爆の悲劇を目撃した。救護所では、焼けただれた子供たちの茫然自失の姿をとらえた。わずかに残っていた建物では、死屍累々の各階の救護室内フロアを用心しながら移動した。しかし、最悪の被爆者の光景は写真に、あまり記録されていない。"何度もシャッターを切ろうとしましたが、被害者が哀れみを求めてくるのです」とある写真家は釈明した。"あまりにも残酷で、あまりにも非人間的で、被爆者の救護の嘆願を無視することはできなかった。もし原爆だと知っていたら、写真を撮影しようとは思わなかったでしょう」。
 日本政府は、写真家が見たように、死者は約26万人、負傷者・行方不明者は約16万3,263人、破壊された面積は約13.2キロ平方メートル、破壊された建物は約63,431棟と推定した。膨大な被爆の損害と犠牲ではあったが、統計的に許容できる数字に推計した。しかし、それが広島原子爆弾が1945年8月6日にほんの一瞬の炸裂による出来事であることは、当時はほとんど想定できなかった。1952年8月14日刊行されて発売された広島原子爆弾の関連書籍である『原子爆弾第一号_ヒロシマの寫眞記録』(朝日出版社)の中で、その説明がなされている。「ヒロシマの都市の中心部で突然、奇妙な光が閃光した...。その瞬間に広島市民らは耳に指を突っ込み、目を閉じて地面に倒れた。世界が粉々に吹き飛ばされたかのように、広島原子爆弾の大爆発は天地を大振動させた。その放射熱は太陽の千倍もあった。鉄の電柱がタワシのようにねじまがった。午前10時頃から午後2時頃まで、広島市内の街中が炎に包まれた。哀れな被爆者は喉の乾きと脱水で水を求めたが、飲水はなかった。」

 


 

2021年6月5日土曜日

原爆災害調査研究委員会が、1945年9月から10日に訪問した爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死者が火葬されて荼毘に伏されて、白骨が一面に散乱していた。

原爆災害調査研究委員会の学術調査団が、1945年9月から10日に長崎市内を訪問した。爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死した死体が火葬されて荼毘に伏されていた。その白骨が側溝の一面に散乱していた。
  1945年年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した同日の直後に、呉鎮守府調査団が広島市内を調査した。東京の大本営は、8月8日に参謀本部と陸軍省と理化学研究所の仁科芳雄など陸軍省救護調査団を広島市に派遣した。原子爆弾開発計画である二号作戦を担った仁科芳雄が原子爆弾を検証した。8月10日に広島市比治山東南で陸海軍合同特殊爆弾研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と報告した。爆心地は、護国神社の南方約300m、高度約550mと想定した。8月8日に広島市に派遣された技術院調査団も、8月10日に東京で政府と陸海軍に対して、原子爆弾であると報告した。
 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて炸裂した。8月9日午前0時にソ連の参戦して、午後10時半から東京の皇居宮中で、最高戦争指導者会議が開催された。午後11時2分から直後に長崎県知事は西部軍管区参謀に、長崎市内に広島と類似の新型爆弾の投下の電報が発信した。午前11時半頃に内務省あるいは大本営に長崎新型爆弾が連絡された。午後2時半すぎから再開された宮中の最高戦争指導者会議に報告された。その後に、8月10日午前2時半頃にポツダム宣言の受諾を昭和天皇の御前会議で決定した。
 陸軍省医務局は8月8日に陸軍軍医学校から陸軍省広島災害調査班を派遣した。8月10日に、レントゲン・フィルムの感光から放射能を含む原子爆弾と断定した。8月10日に陸軍省は、レントゲン教官至急派遣セシメラレ度と要請を受けた。8月14日に第2次調査班を広島に派遣した。ローリッツエン検電器により、8月17日まで広島市内の放射能を測定した。京都・大阪帝国大学の調査団も放射能を測定した。8月15日朝の新聞で仁科芳雄から原子爆弾が公表された。
 8月下旬から9月上旬に、東京帝国大学医学部などの大学・研究機関により、広島・長崎の調査と救護に参画した。広島の派遣団長である東京大学の都筑正男や陸軍軍医学校、理化学研究所が参加して、陸軍省第3次調査班として8月29日に広島市内を調査した。病理解剖やガイガー計数管で放射能の影響を調査した。9月3日に広島県庁で、原爆症に関する世界最初の講演会を開催した。京都帝国大学は、8月27日に中国軍管区司令部から要請されて、9月2日から広島市に入るも、9月17日の枕崎台風で11人が死亡して調査は頓挫した。長崎市には、8月下旬から9月上旬に、九州帝国大学、熊本医科大学が、調査と救護に参加した。
 終戦後に、アメリカ軍が日本進駐して、8月30日に横浜港に到達したマンハッタン管区調査団など多数の調査団が原子爆弾の調査・研究を開始した。8月28日にアメリカ軍総司令部は、8月28日からアメリン陸軍軍医団調査班が編成されて、9月4日に東京大学の調査団長の都筑正男と連絡調整して、9月8日に厚木基地から広島市内に入り、9月9日に長崎市内に入り調査を開始した。
 1945年9月14日に、文部省科学教育局により、日本学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)が原子爆弾災害調査研究特別委員会を結成した。委員約33人、研究員約150人、助手約1,500人の大規模に構成された。アメリカ軍総司令部(GHQ)は9月22日に、日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会を結成した。9月28日に長崎市、10月12日に広島市にて調査研究して、12月には日米合同調査は終結した。GHQは1945年9月19日に日本国内に言論・報道・出版規制を発令して、1952年4月のサンフランシスコ講和条約まで制限された。(直前の9月5日に、ウィリアム・バーチェット記者が、デイリー・エクスプレスに初めて原子爆弾被害の一部が海外に報道された。)11月30日にはGHQは日本人による原子爆弾の災害研究の公表を厳禁を通知した。1946年1月に広島・長崎原爆医学資料は呉港からアメリカ本国の軍医総監督に1973年まで極秘に保管された。